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【短編小説】食卓

 ゆっくりと左足を上げる。軸になる右足は、投げる方向につま先が直角になるよう踏み込んでいる。後ろに引いた右手の肘は、これも直角に曲げ、肩より下げない。投げる方向にグラブをはめた左手がまっすぐに伸びている。小指は上を向き、掌は外に向いている。胸を張り、腰を切り、肘からしなるように投げる。右手は、時計の2時の高さから7時の低さに振られていく。同時に左手は体に引きつけ、投げ終わった後、肘が三角に体の後に残るようにする。
 ボールはまっすぐに飛んでいく。ホップ加減に裕太の構えたグラブをめがけている。肘を伸ばしてはいけない。軽く曲げ、両手で取りに行く感覚を忘れるな。目をそらさず、しっかりとボールを見つめていろ。捕球の瞬間、少しだけグラブを突き出せ。そうすれば自然とグラブは閉まる。簡単だ。簡単なことだ。
 しかし、やはり裕太はボールをはじく。腰がボールの軌跡から完全に逃げている。グラブをはめた左手の肘は棒のように硬直して、右手は腰より遠い所にある。もっといいところに投げてよ。そう裕太は言うだろう。顔をしかめて嫌々ボールを拾いに行くだろう。
「お父さん、もうちょっといいとこ投げてくんなきゃ捕れないよ」
 裕太は口をとがらし、そう言い捨ててボールの方へ歩いていく。歩きながら、「ねえ、もうやめない」と言う。
「今、始めたばかりだろう」
「だって、お父さん、ちっともいいとこに投げてくんないんだもん。つまんないよ」
 私は、出そうとした言葉を飲み込む。握り拳でグラブをたたき、気分を変える。そして辛抱強く、裕太がボールを拾って戻ってくるまで待つ。
「よし、こい」
 裕太が足を上げ、ボールを投げる。指のかかっていない、手首のスナップもないボールは、ただ闇雲に投げられただけで、山なりに、私の立っている場所から大きく外れる。伸ばしたグラブをかすめ、ボールは転々とする。
「もう、へたくそだなあ」
 ボールを追う私に、裕太はおかしそうに声を掛ける。今年十五のはずなのに、その声は小学生のように聞こえた。
 私は何も言わない。やはり裕太には判らないのだ。
「ここから投げていいか」
 ボールを拾った場所で声を上げた。
「駄目だよ。遠くじゃない。まっすぐこないよ」
 まっすぐに投げられる自信はあった。胸に正確に投げられる自信はあった。
「やめてよ。お父さんじゃ無理だよ」
 私はわざと、思い切り強いボールを、裕太を避けて投げ込んだ。勿論裕太は一歩も動かず、それどころか遠くのそのボールの勢いに怯えさえして見送った。
「悪い!」
 叱られたような顔をした裕太は、私の言葉に我に返り、だから駄目だっていったじゃないか、ともう一歩も動こうとしない。
「もう、つまんないからやめる」
 つまんないからじゃないだろう、怖いからだろう。
「お父さん、下手くそで、もうやってらんないよ」
 おまえは自分が下手だとは、決して言わない。教えてくれとも決して言わない。ただ、自分以外のものを、批判して、それでなんとかなると思っている。もうずっと前から気づいていた。気づいていたが、言えなかった。それは、きっと、私が悪いのだ。
「裕太。ボールを取ってくれ」
「嫌だよ。お父さんがへんなとこに投げたんじゃないか。お父さんが取りにいけばいいじゃないか」
「おまえに取りにいって欲しいんだ」
 私は動かなかった。裕太も動かなかった。顔を横に向け、不満そうな顔をしている。
「おまえに取りにいって欲しいんだ」
 もう一度言った。裕太はチェっと舌打ちして、のろのろとボールを取りに行く。私はゆっくり歩いて裕太が元いた場所まで行った。
 裕太は乱暴にボールを拾った。もうキャッチボールをする気はないらしい。背中を頑なに強ばらせて、公園から出ていこうとする。ひっきりなしにチェっチェっと舌打ちを続けている。
「裕太」
 と声を掛けたが、もう裕太には聞こえてはいない。 
 私は少し早歩きで裕太の後を追った。追いついたところで、声を掛ける。
「進路の面談のこと、お母さんから聞いたよ」
 裕太は暗い顔をして黙っている。
「おまえはどうしたいんだ」
 裕太からの声はない。
「勉強はどうだ。判らないところが多いのか」
「そうじゃないよ」
「塾がいやなら、お父さんが教えてやろうか」
「お父さんじゃ、わからないよ」
「わかるさ。中学校の勉強だろ。判るさ」
 その言葉が裕太を傷つけたらしかった。裕太は、ちょっとイラついた声になる。
「お父さんのときと時代が違うんだよ」
「そうか」
 話は続けたい。私はとにかく聞こうという気になった。
「お父さんの時より難しいんだ」
「そうか」
「そうさ。数学だって英語だって難しいんだ」
「じゃあ、お父さんも一緒に勉強しよう」
「できるよ、一人で」
「邪魔か」
「邪魔だよ。それに、俺、やろうと思ったらできるんだよ」
「そうか。できるのか」
「こないだ勉強してて、やっと勉強のコツが判ったんだ。気が付いたんだ。俺って今まで何やってたんだろうって」
 本当に判ったように明るい声で裕太は言う。だが、私には勉強のコツなんてあるとは思えなかった。万遍なく時間をかけて、地道にやることが一番大切ではないのか、と思えた。
「じゃあ、安心してていいのか」
「いいよ。もうわかったんだよ。コツが」
 裕太は何度も頷き、ボールを持つ指をせわしなく動かした。
「先生、馬鹿にしてるよ。山北工業だって、馬鹿にしてるよ」
「それは違う。工業高校だって、ちゃんと目的を持って入っている子もいるだろう」
「いないよ。あんな学校。いるわけがないよ」
 何を言っている。自分がどれほどの人間だ。どこにだってちゃんとした人間はいる。どこにだって不真面目な奴もいる。でもそれを言ってもきっと裕太には判らない。私は話題を変えた。
「裕太。お父さんが、一番嫌いな奴って判るか」
 裕太は緊張した。
「そんな、わかんないよ」
 ためらって、そう言った。
「努力しないで結果だけ手に入れる奴だ」
 瞬間、裕太は判らない顔をした。
「勉強しないでも、一流高校に入れる奴だ。練習もろくにしないで優勝してしまうような奴だ」
 裕太の顔が輝く。
「そうだ、そんな奴、最低だ」
「そう思うか」
「思うよ。高木って奴がクラスにいるんだけど、何にもしてないのに勉強も運動もできるんだ。ほんとに何にもしないんだぜ。だけどできるんだ。いけ好かねえ奴さ。高木って言うんだ」
 高木君はきっとおまえの見ていないところで、努力してるんだ。それを見せてないだけだ。お父さんの、本当に嫌いなのは、努力もしないで人の結果を妬むだけの奴だ。
 玄関扉を開けると、テレビの音だけがする。居間で、亜紀がソファーに寝ころんで携帯電話をいじっていた。
「なんだ、もう帰ってきちゃったの。キャッチボールは」
「おやじ、下手で続かねえんだよ」台所の冷蔵庫を開けながら裕太が言う。
「どうだか、ウンチ(運動音痴)の兄ちゃんが相手じゃね」
「なに!」
「だって、ホントじゃん。球技大会なんて見てらんないよ。妹として恥ずかしいかぎりね」
「なに! なに! コイツ」
 裕太は台所から飛び出してきた。亜紀は首だけ回して、フンっと鼻で笑う。
「馬鹿じゃない。やんの。やってみなよ。アタシの友達に言ってボコすかんね。兄ちゃんと違って、こう見えてもアタシ、モテんだよ」
 飛び出したところで、その声を聞き、裕太は赤い顔のまま立ち止まる。それで、おしまいなのだ。もう裕太には何もできはしない。小学生のような悪態をつきはするが、もう亜紀は何も聞いてはいない。
 私は、テレビを消した。
「お父さん、何すんのよ。見てんのよ」
 私は無言で亜紀を見る。亜紀はプイっと横を向いて、携帯をいじり続ける。
「叱られてやがんの」
 裕太がスッとしたように言った。ぐずぐず悪口を言いはしても、亜紀がまるで相手にしないので、自分の部屋に行くに行けず、私の行動でやっときりがついたのだ。
「バーカ。叱られてやんの」
 カウンター越しに、開け放しの冷蔵庫が見えた。裕太に声を掛けようと思ったがやめた。
台所に入り、扉を閉める。雑然と何の整理もなく押し込んである食料品の山を見ないように、私は扉を閉める。
 私はダイニングのテーブルについた。寝そべった亜紀の背中を見ていた。いつからこうなったのだろうか。動物園に亜紀と裕太と恵子と私と、四人で行ったのはいつだったろうか。亜紀はゴリラがお気に入りで、オリの前からずうっと動かなかった。ゴリラが自分に近づいてきても、平気だもん、オリがあるから、と強がって見せた。裕太は恵子と手をつないで、買って貰ったおもちゃの双眼鏡でゴリラを見ていた。あの時、ゴリラが不意にツバを吐いたんだった。ツバが顔にかかって、亜紀は大泣きした。裕太は猛然とオリの前に行って、何か叫んだ。何って言ったかな。馬鹿とかそういう言葉だ。亜紀は裕太の陰に隠れて泣いた。裕太の服でゴシゴシ顔を拭っていた。裕太は構わず大声で、ゴリラに怒っていた。恵子が笑いながら近づく。二人を抱きしめる。あれはいつのころだったろうか。
「ウザッ!」
 亜紀は私を見ないで立ち上がる。そのまま玄関にいって、変な形のサンダルを履いてどこかに行ってしまう。夕食まで、私は一人だ。一人でこの椅子に座って、何をしよう。定年後の男がやるように新聞を隅から隅まで丁寧に読もうか。テレビで興味もないマラソンでも見ようか。何をしようか。何を、しようか。
 テーブルの上には二つのグローブが置いてある。私は保革油と布とブラシを探す。どれもグラブといっしょに裕太に買ってやったものだ。なかなか見つからない。戸棚の奥にそれを見つけて、私はグラブをとる。まず新聞紙を敷く。
そして、ブラシで丁寧に土埃を掃き出す。ひもの通し目、指と指の間、丁寧に汚れを落とす。よくやった。中学時代、私は毎日これをしていた。次に保革油を布に取り、グラブに薄く伸ばしていく。こうやってまんべんなく塗りこんで、後はボールをグラブに入れて、ひもで縛っておく。よくやった。中学時代に、よくやった。私は、飽きることなくグラブの手入れをつづけた。
 二つのグラブの手入れをし終えた頃、恵子が帰ってきた。
「あら、そんなふうにするのね」
 恵子はテーブルの二つのグラブを珍しい物でも見るように見て、そう言った。
「何処へ行ってたんだ」
「買い物よ。言ったじゃない。それより裕太と話してくれた」
「ああ」
「どうだった。少しは勉強する気になってくれた」
「勉強のコツが判ったそうだ」
「勉強のコツ? 前にも裕太そんなこと言ってたのよ。ぜんぜん判ってないわね。私立のしかも工業だなんて、低くてもいいから、せめて普通科に入ってくれないかしら」
「工業でもいいじゃないか」
「駄目よ。世間体が悪いじゃない。あんな制服来て、マンションうろうろされてたらみっともないわよ」
「何、言ってる。そんな人を見下すような言い方はするな」
「裕太によくなって貰いたいと思うから、あなたに相談してるんじゃない。現実、そうなんだから。そう見られるんだから。私ばっかりに裕太を押しつけといて、ちょっと相談してくれって言ったら、そうやって怒るんだもの。やってらんないわ」
「押しつけた?」
「そうよ」
「じゃ、お前は今まで裕太の相談に乗ってやったのか。裕太とじっくり話したことがあるのか」
「あなた、今、裕太と話して判らなかったの。相談なんて高級なことがあの子にできると思う? 人の話だってまともに聞けないのに。きっと授業聞いたってチンプンカンプンよ。でも、偉いわよね。毎日五時間も六時間もわかんない授業、黙って受けて。英語なんてきっとアラビア語聞いてるのといっしょよ。何んにも判ってないんだもの。びっくりしたわ、この間。あの子――」
 恵子はまくし立てるのだった。もうとめどがない。私は諦めて、窓の外を見る。五階の部屋から夕焼けが見える。幾重にもカーテンを広げたような雲に、滲んだ赤が広がっている。陰影のある町並みが遠くまで見えた。見事な夕焼けだ。そう、この部屋を借りるとき、丁度この夕焼けが見えていた。西向きの部屋に気は進まなかったが、この夕焼けを見て、この部屋に決めのだった。裕太が歓声を上げて、ベランダに走り出た。恵子と亜紀は喋るのやめて見とれた。勿論、私も心を奪われた。
「お父さん」
 振り返った裕太に頷いてやると、こぼれるような笑顔を見せてくれた。
 恵子は私の視線に気づいて、夕焼けを見る。けれど、すぐに見るのをやめて、ちょっと聞いてるの、と私を問いつめる。私は何も言わない。お前は誰のために怒っているのか。何に怒っているのか。悪いが、私には判らない。

 七時になって、家族四人は家にいるのに、全員が顔を揃えることはない。ずっとテーブルに付いている私の前に、四人分の食事がお盆に乗せられて置いてある。もう少し待っていようと箸をとらない。テレビをつけてみる。映画のような戦争が始まっている。映画の市街戦そっくりに本当の戦争が行われている。
 台所から出てきた恵子は、テレビの音が大きいと言ってから、食事を始める。食べない私に気がついて、どうしたの、と訊いてくる。初め「どうしたいの」と聞き違え、喋ろうとした時に、恵子がもう一度、「ねえ、どうしたの。早く食べなさいよ」と言い、さっきは自分の聞き違えだったとわかって、それでまた食欲が萎えた。
「いやね。一生懸命つくっても誰も食べてくれない」
 そう恵子は言って、みそ汁を啜る。私は箸をとった。でも、やはり置いて、裕太と亜紀を呼んでこよう、と言った。
「来ないわよ」
 恵子はリモコンでチャンネルを替える。バラエティ番組に合わせて、アハハと笑う。アハハ、アハハ。アハハハハ。私は立ち上がって子供達を呼びに行く。
「来ないわよ」
 恵子は画面を見たままでもう一度言った。
 亜紀の部屋をノックした。返事がない。また、ノックした。今度も返事がないので、ドアを開ける。亜紀はベッドに寝転がって雑誌を読んでいた。
「何、勝手に入ってこないでよ」
「ノックした」
「聞こえないわよ」
「晩飯だ」
「後で食べる」
 いつものことだ。亜紀は気に入ったテレビ番組が始まるまで部屋を出ない。一人で遅れて出てきて、勝手に電子レンジで温めて食べる。携帯を横に置いて、食事の途中でも、メールが来れば中断して、何か打ち始める。ごちそうさまも言わない。食い散らかして、それで終わりだ。番組が終われば、また自分の部屋に入る。
「いつも後で食べると、片づけるお母さんが大変じゃないか」
「どうせ食器洗い機でやんだから簡単じゃん」
「じゃあ、今日はお前が片づけるか」
「なんであたしがやらなきゃなんないのよ」
「だって、簡単なんだろ」
 怒鳴りたいのを我慢して続ける。今日は何としても四人で夕食を食べたかった。 
「なんだよ。うっせえなあ」
 辛抱強く待つ。亜紀は私が動かないのが分かると、大儀そうに起きあがった。私はドアを開けたままにして、裕太の部屋をノックする。
「なんだよ」
 返事があったので、ドアを開ける。机にはついているが、勉強している様子はない。参考書が広げられ、問題集が置いてあるが、やってはいない。雰囲気で分かる。裕太はただ机についていただけだ。そうしてただ時間が過ぎていくのを待って、自分では勉強したようなつもりになっている。
 私は近づいて問題集を覗き見た。問題集の最初の方の問題に、汚い字で何か書き付けてあるが、後は落書きがあるだけだ。私の視線に気づいて、裕太は問題集を閉じた。
「なんの用だよ」
「晩飯だ」 
「今、勉強してんだよ。キリのいいとこになったら行くよ」
「もうだいぶやったろう」
 裕太は考えるふりをした。勉強していたと見せかけることができたか、私の顔色を見て量っているらしい。私は、「まあ、ひと息いれろ」と言ってみた。裕太はホッとして、仕方ねえなあ、と言いながら、椅子を立つ。
 居間のテーブルには、既に亜紀がついていた。私と裕太も席につく。座るなり裕太が、「お母さん、飯」と言う。珍しいこと、みんな揃うなんて。そう言いながら、恵子は台所にたって、二人の子供の飯をよそう。
 亜紀と裕太の前にご飯茶碗を置くと、恵子はまたテレビの中に入っていった。
「亜紀」と私は声をかけた。
「何」と面倒くさそうに箸を動かしながら、亜紀が答える。
「お前も来年は受験だろう」
「まあね」
「お兄ちゃんのことよく見てるか」
「何」
「だから、受験勉強は大変だってことだ」
 亜紀が薄く笑う。敏感に裕太が口を挟む。
「何笑ってんだよ」
「だって、お父さん。変なこと言うからさ」
「何が変なことなんだ」
「だって、兄貴が受験勉強だって、笑わせる。してないじゃん。勉強なんて」
「なにを。見てもいないくせに、いいかげんなこと言うな」
「はいはい」
 しかし亜紀は依然へらへらしながら、箸を使う。
「お前」とまた裕太が熱くなる。
「また興奮する。兄貴の癖して幼稚なのよ」
「なんだと」
「だって山北工業なんでしょ。馬鹿じゃない」
 裕太の目が泳ぐ。
「お父さんが言ったのか」
 私は黙っていた。亜紀はしらん振りしている。あたしよ、と恵子がテレビを見ながら言う。
「いかねえよ。山北なんて」
 噛みつくような声で、裕太は恵子に言う。その剣幕に恵子が振り返る。
「面談で、そういう話があったってことよ。あんたが行くとか行かないとか、これからの話でしょ」
「行くって、いくら山北でも受かんないと行けないって知ってた?」
 いかにも馬鹿にしたように亜紀が言う。もう裕太は何も言わない。不機嫌に飯をかき込む。腹は減っているのだ。少なくとも、飯を食い終わるまで裕太は食卓にいるだろう。私は敢えて、話を続けることにした。
「山北工業っていっても、そんなに馬鹿にしたもんじゃないだろう」
 裕太は黙っている。亜紀と恵子は、テレビを見て笑っている。
「お父さん調べたんだけどな、最近はいろんな科ができたらしいぞ」
「……」
「工業デザイン科とか、コンピューター科とか、食品科とかもあるらしいぞ」
「でも、大学いけねえだろ、そんなとこ行っても」
 亜紀が吹きだす。が、すぐに、ごめんごめんテレビで変なことやるから、と言い訳した。
「どうぞ、続けて。私関係ないから」
 改めて、私は話を続ける。
「学校は社会に出る準備をする所だ。別に普通科とか大学にこだわることはないだろう」
「でも、興味ねえもん」
「興味があって行く場合もあれば、行ってみて興味がわくこともあるだろう」
「そりゃそうだけど」
「お前、英語とか、社会とか興味あるか」
「……ないけど」
「手を動かして何か作業するのと、机で数学の問題解くのと、どっちがいい」
 裕太は考えながらみそ汁を啜る。テレビでは、ずっと同じお笑い芸人がネタを続けている。だが、恵子も亜紀も笑わない。
「ちゃんと考えて山北工業を志望する子もいるはずだろう」
「ちょっと待って。それ裕太に山北勧めてるの?」恵子が話に入ってくる。「私は反対よ」
「裕太が決めることだ」
「だって、あなた勧めてるじゃない」
「いろんなことを考えに入れてから決めてみろ、と言ってるだけだ」
「嫌よ。山北工業なんて。行かせないわ」
「お前が行くわけじゃない」
「そうね。お母さんが行くわけじゃない」他人事のように、テレビを見ながら亜紀が言う。「あたしは別にお兄ちゃんが山北でもいいし。関係ないし」
「だって恥ずかしいでしょ」
「恥ずかしくないわよ。堂々としてりゃいいのよ。恥ずかしがるから恥ずかしいのよ」
 そう言って亜紀は、テレビの画面を指さしアハハと笑った。
 思わぬ援軍を得て、私は意を強くした。
「だから、まあ、体験入学だけでもしてみたらいい」
 すぐに返事はなかった。裕太は黙って食べ続けた。食べ終わって、ごちそうさまの代わりに、行ってみるよ、と細く呟いた。恵子は怒ったように箸を動かしている。亜紀は、テーブルに箸を立ててテレビに見入っている。
 次に恵子が、続いて私が食べ終わる。それを見て、まだ残っているのに、亜紀がなんとなく箸を置く。
「終わりか」
「ごっちそーさまでした。これでいい?」
 亜紀はそう言って、自分の部屋に引き上げた。恵子はテレビを消して、テーブルの上を片づけ始める。みんないっしょだと楽よね、と独り言を言う。その声は意外にも穏やかだった。亜紀もいつもより食べてる。箸をとりまとめながら言う。私はソファーに移って、そこに置いてあるグラブを手に取った。
「あなた野球部だったの」皿を重ねながら恵子が言う。「どこ守ってたの」
「外野の補欠」
 まあ、と恵子は笑う。別に笑われて腹も立たなかった。懸命にボールを追った時間の幸福、それはやったものにしか判らない。
「試合には出たことあるの」
「練習試合に時々」
「そんな試合にも出られないのに、なんで辞めなかったの」
「どうしてかな」
「野球のボールって当たると痛いんでしょ」
「痛い。すごく痛いさ」
 幾度かボールを当てた痛みが蘇る。あと、振り抜いたバットにはじかれるボールの感触と。それから捕球した重い手応えと。
「裕太、キャッチボール下手でしょう」
「下手でもいいんだよ」
「なんか、あなたが言うと説得力あるわね」
 そう言って、恵子は台所に行った。
 私は少し気分がよくなっていた。どのくらいぶりだろう、こうして恵子と他愛もない話をするのは。
 食器を洗い終えて、恵子は、先にお風呂いただくわ、と言った。私は、ああ、と答えて、ウィスキーの水割りをつくった。しばらくして、亜紀が台所にやってくる。
「お酒、飲んでんだ」と、牛乳を注ぎながら言う。「食べるもんなんて、何にもないね、この家」
「ちゃんと夕飯、食べないからだろ」
 ソファーから私が答える。亜紀は牛乳のコップを持って、向かいに腰を降ろした。
「ねえ、まずくない?」
「なにが」
「お兄ちゃん。あんな体験入学とか言ったら、もう入れるみたいに勘違いしちゃって益々勉強しなくならない?」
「お前、心配してやってるのか」
「だって、今だってなんかCD聴いてるよ」
「もう合格した気になってか」
「そう。単純なんだから」
 二人で笑った。亜紀が私にこんなに心を開いたのも、いつ以来だろうか。
「お前は、勉強大丈夫なのか」
「馬鹿兄貴っていう反面教師がいるからね。まあ、並のとこには行けるようにやってるよ」
「そうか」
「まあね」
 亜紀は、牛乳をひと息に飲んで、ソファーの上にあぐらをかく。コップをテーブルに置いてから足首を両手で掴んで体を揺らした。
「それからさあ」コップを見ながら亜紀が言う。「お父さんが、言ったようなことって、先生も言うわけよ」
「ん?」
「だからさあ、お父さんの言うようなことって、もう耳にタコなわけよ。だってそうでしょ。みんな普通科行きたいんだし。でも、勉強出来なきゃ、志望校変えるしかないわけでしょ。だから先生がやんわり説得するわけよ。適性検査とか言っちゃったりしてさ、なんかどうでもいいようなことやらせて、お前、座学より体動かす方がいいんじゃないか、なんて。作戦なんだよ」
「俺の話は無駄だったってことか」
「違うよ」亜紀は顔を上げた。「だって、体験入学、行くっていったじゃない。どうしてだと思う」
「どうしてかな」
「お父さんが言ったからじゃない」
 言葉に詰まった。
「親の言うことってさあ、やっぱ説得力あんじゃないの。あれぐらいの年齢には」足首から両手を離して、ソファーの背もたれに回す。あらぬ方を見ながら亜紀は続けた。「まあ、そうだと思うよ。だから、キャッチボールしてやんなよ。勉強の気分転換とか言って、兄貴のプライド傷つけないようにしてさ」
「キャッチボールをか?」
「そう。だんだんうまくなるって、人間なんだから」
 ちょっと考えた。
「そうだな、人間だものな」
「そうそう。相田みつをよ」
 亜紀は自分で納得するように何度も頷く。
その動作に、動物園でのあの愛らしい姿が重なった。
「亜紀。頼みがあるんだけどな」
「何」
「明日も一緒に夕食をとろう」
 亜紀は少し口をとがらして、まあ、考えとくわ、と言った。

             了

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