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松浦寿輝「接触の瞬間」

毎回、どう読むのか忘れる。ジュキ?じゃないだろうな。ヒサキ。ああ、そうだった。絶対32回くらい悩んで、七回くらい調べた。でも、すぐ忘れる。ジュキ?じゃ、ないだろうなあって。

東京大学仏文科の名誉教授である。東大の仏文と言えば、太宰治から大江健三郎まで、作家の宝庫である。昔は、文学なら仏文だったのだろう。
よく知らないが、大学でフランス語始めて、そんなペラペラ読めるものなのか。まして、文学とか哲学とか。謎である。
松浦寿輝氏もその流れにいる。芥川賞を獲った「花腐し」なんて日本語、あの時はじめて知った。なんでも長雨のことらしい。しかし、美しい言葉だなあ、「花腐し」

「新潮創刊120周年記念特大号」には、小説の他に2ページほどのエッセイが載っている。有名作家の人たちがたくさん書いている。
共通のお題は「創作の小さな真実」。これはこれで面白いが、小説ではないので感想は書かない。
だが松浦寿輝氏の「接触の瞬間」は、引っかかるところが大きかったので、書く。

外国の偉い人の説によると、人は基本肉体的接触を回避するようにでいているそうだ。それが、逆に「群衆」という形で密集してしまうと、熱狂と歓喜がうまれるのだそうだ。
で、例外的に日常レベルで、肉体的接触が生まれるのが「性愛」と「暴力」。

そうか、なるほどなあ。

で、松浦氏は続ける。だから自分は「性愛」と「暴力」を書く時は、ことに気をつけるのだけど、ある時、小説に「暴力」の場面を入れたところ通俗だと批判されたというのである。

その批評家は馬鹿だなあ、と私も思う。そしてここでも通俗が悪口として使われてることにも。だいたい小説なんて通俗を書くもんじゃないのか、と私は思う。

通俗とはパターンである。勧善懲悪とか。今、私は、「花咲舞が黙ってない」というテレビドラマを、毎回楽しく視聴している。毎回、胸のすくような思いである。主役の今田美桜も可愛い。美桜、なんて読むのだろう。毎回困る。ビサクラ?まさか、違うよな。ミオか。今調べた。

なんの話だっけ。ああ、通俗。通俗とはパターンである。物語と言い換えてもいい。なんで通俗を否定できないかというと、我々は誰しも物語を生きているからである。

私たちは誰かの物語を生きている。

と言った人がいる。人がこうしたいああしたい、あれが欲しいこれが欲しい、こういう人生を歩みたい、ああいう人生はいいなあ、と思うのは、過去にそういう物語があったからである。それをなぞって我々は生きているのである。それは文化と言い換えてもいい。多くの人は文化の物語の中で生き死んでいく。物語から外れると不安になり、なんとか物語的生き方に立ち戻りたいと思う。
勿論、前衛はあっていい。立ち止まれば文化は腐るから、常に新しい血をいれなければならない。だが、前衛は、後衛あっての前衛だと忘れてはいけない。我々のベースはあくまで後衛・通俗にある。そして前衛はやがて後衛になる。

通俗小説は、当たり前の文化のあり方を意匠を変えて、我々に提示してくれる。筋が似たり寄ったりでも、キャラクターや舞台が変われば、我々は安心してこれを楽しむ。
道を外れた時、不安になる。これが文学になる。
だけじゃない、と言う人がいるだろう。勿論、だけじゃない。前衛の人は前衛で戦っている。新しい文化、物語を作るために。それはそれでいい。だが、これだけが文学だと言うのは違うと思う。
だから、通俗を馬鹿にしてはいけない。私たちは誰も皆通俗から生まれた。否定するにせよ、乗り越えるにせよ、何を否定し何を乗り越えるのかわかってなければダメだろう。
「暴力」を使ったから、ダメなのではない。むしろ、「暴力」によって、どう物語から逸脱していったかを見るべきだと思う。
そういう意味で「性愛」「暴力」は、それが過剰なだけに、物語を逸脱する引き金になるものだ。逸脱することで、本来的な物語がどういうものであったかを逆照射する。劇薬である。
かつて、北野武は過剰な暴力を持ち込むことで、映画表現を変えた。大島渚は過剰な性愛を描いて、愛の形を問いかけた。
と同時に、暴力を振るうものが懲らしめられ、プラトニックラブな恋愛模様は、ドラマに映画に小説に溢れている。

古井由吉は、「真の通俗というのはじつは非常に難しいものなんですよ」と言ったそうである。さすが、わかってらっしゃる人は分かってらっしゃる。

通俗はパターンだから、見る人は結末を知っている。例えば勧善懲悪なら、正義は勝って悪は滅びるのである。逆はない。どうなるか分かっているのに、人は通俗を愛する。分かってる筋を、飽きさせず面白く読ませるのには、とてつもない技術がいるのだと思う。
まさに、通俗を書くことは非常に難しいことなのである。




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