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山田詠美「死刑待ち」

山田詠美は「文藝」の新人賞を受賞して作家生活に入る。よく覚えている。なぜよく覚えているかと言うと、定食屋で飯を食っていたら、6時のニュースで流れたからである。びっくりした。フジテレビだったような気がする。私は後にも先にも文芸誌の新人賞がニュースになったのを見たことがない。これからもきっとないと思う。

山田詠美は、その後、精力的に作品を発表して、直木賞を取った。直木賞なのに、今、芥川賞の審査員をしている。時々、このようなことが起きる。檀一雄は「夕日と拳銃」とか「石川五右衛門」とか大衆ものもいっぱい書いたので、直木賞。これは仕方ない。井伏鱒二は、そのユーモア性が通俗とみられたのかもしれないで直木賞。まあ、芥川賞だろうと直木賞だろうと、受賞すれば箔がつくし、どっちもらってもいいようなものだが、山田詠美はちょっとひっかかる。あと、車谷長吉も「赤目四十八瀧心中未遂」で直木賞を取ったが、これも引っかかる。二人とも芥川賞のよな気がする。

そんなことはいい。山田詠美の作品である。

「死刑待ち」

すべての人間は死のキャリアだと、ある作家が言った。すべての人間は「死」という病のキャリアだと。やがて発症して人は死ぬ。だからこそ、諦観ありきの充実が存在するのだと。

噛み砕いて言えば、死を意識することで充実した生が得られる、といったところだろうか。ハイデッカーの実存主義と言ってることは同じだ。

でも、作中の「私」は、これに反発する。そんな達観できる生と死を、いったい誰が見せてくれるというのか。人間の死は、どんな場合も死刑の執行だ。誰かに、何かに、もしくは自分自身で、刑は執行される、と。こうなると、生の充実もへったくれもない。ある日、突然、死刑執行人が命を奪いにくるというだけだ。そこに死を意識した生の充実はない。

「私」と兄と兄を溺愛する母親。小説は三人を軸に語られる。話の終盤、死刑は執行され、家族は現に死に、あるいは生を失い、あるいは死刑執行人の自覚を持つ。

救いのない話である。こういうペスミスティックな(厭世的、悲観的な)小説を読むと、気が滅入る。しかし、それが作者の哲学ならば、信念を持って書かれるのなら、それは仕方がない。人間の死は、どんな場合も死刑の執行である。誰の場合もそうで、生きるとはその待ち時間を過ごすことだ、と。

うーん。僕は主語が大きいような気がしてならない。

こういう人生もある、といった特殊例であるならば、そうなんだ、可哀想な人達だ以上のことは浮かばないし、救いと言うか、逃げ場は用意できる。

動機の逃げ場には次のようなものがある。
・社会のせい。
・他人のせい。
・病気のせい。
・思想のせい。
 不公平な社会であったから。貧乏であったから。差別されて育ったから。
 毒親だったから。悪い友人、先輩、恋人にそそのかされたから。
 善悪の判断ができない疾患に罹っていたから。精神的疾病ともいえる極端に偏った性質を有していたから。
 悪い思想や宗教に心酔してていたから。その教えの通りに行動するメンタルであったから。

どれかのせいにすればいいのである。これら四つの理由から、人はあるべき道を逸脱し、犯罪を犯す。人を死に至らしめる。あくまで殺人の動機は、個人に降りかかる個別的な不幸が原因とできる。これなら救いはある。これら不幸を除けばいいのだから。できるできないは別として、解決の方向性はある。それができない時に、人は怒ったり涙したりして、感情の持って行き場もある。

でも、この小説は違うのだ。人の死は死刑という刑罰なのだと言うのだ。誰であれ例外なく人間の生は誰かに何かにもしかしたら自分自身によって奪われる刑罰であると。救いもなければ逃げ道もない。
 母親は、極端に偏った性質なので、個人的要因の「病気のせい」という逃げ道に行けるのだが、作者はそうはしない。更には、「母親」が死刑執行人であるように「私」もまた死刑執行人である、とまで言おうとする。つまり、人は皆死刑執行人であり死刑囚である、と。

勿論、これは作中の「私」の考え方であり、山田詠美がそう考えているとイコールにすることはできない。できないが、僕はこの小説にどのようなリジョイス(喜び)も感じとることはできなかった。

うーん、小説ってなんなんだろう。





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