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朝吹真理子「植物人間」

 芥川賞受賞の時、西村賢太と並んで座らされてて、本人嫌だろうなあって思って見ていたら、そうでもなさそうで、はきはき記者の質問に答えていた。

 わからん話だが、夢の話ではなく、自動筆記のようでもなく、アバンギャルドを意識したものでも、不条理を意図したものでもないような気がする。作風を詩的だという人もいるが、私に詩はわからない。

 美蘭の恋人の"きよ"という男が倒れて、動かなくなって、植物が生える話である。
 別れ話の最中、"きよ"は倒れる。二、三日すると、体から植物が生え始める。美蘭は友達のヨハンの家に鰻を食べにいく。ヨハンの彼女は古希を迎えるような老女で既に死んでいる。そこには蛆にまみれたモップみたいな犬がいたが、それも既に死んでいる。
 美蘭は"きよ"が水虫だったことを思い出す。美蘭に対しては酷い潔癖を求めていたくせに。美蘭は"きよ"によく殴られた。
 帰りがけ、違う友達が"きよ"がクレープ屋に女といると知らせてくる。部屋にもどると、やっぱり"きよ"はそこにいて、体中、ボーボーと植物に覆われている。
 美蘭は"きよ"の目玉の辺りをぎゅっと押す。プチプチした赤くて白い粒々がいくらでも出てくる。瞼を捲ると粒々でいっぱいだ。美蘭はそれをヨハンの家で食べたいちじくみたいだと思う。

 こんな感じだ。
 朝吹さんの小説を評して、"何を語るかではなくいかに語るか"と言った人がいる。なるほど、何を語ろうとしているのか、確かに皆目わからん。逆に、"いかに語るか"は、よくわかる。最後の目ん玉のじゅくじゅくは、丸尾末広の漫画のように、美し気持ち悪い。犬の蛆も、"きよ"の体から生える植物も、美し気持ち悪い。水虫の話から美蘭の脇毛の話になって、それを無理やり鏡に写させられる様は淫靡である。老女を愛するヨハンも倒錯しているし、ヨハン自体も正体不明である。考えてみれば、鰻もいちじくもグロテスクといえばグロテスクだ。しかし、なぜ"きよ"は二人いるのか。私は不意に「ドリアングレイの肖像」を思った。なぜ連想がそこに飛んだのか、訊かれても困る。飛んだのだ。

 "いかに語るか"については成功してると思う。"何を語るか"については、よくわからないとしておく。実は、頭の中に、いろんなことが浮かんではいるのだが、それをどう書いたとしても、"いかに語るか"に対抗できるほどの言葉にならない。
だから、やめておく。


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