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多和田葉子「ひなんくんれん」

世界文学の人である。村上春樹よりも先にノーベル文学賞を取るかもしれない人である。日本の文学賞を総なめにし、海外の文学賞も総なめにしつつある人である。10を超える言語に翻訳され、ドイツにずっと住んでる人である。
そして、私が読んでまるで理解できない小説を書く人である。

が、困ったことに面白いのである。理解はできないのに面白いのである。

出だしは、小学校の教室が揺れ始めるところから始まる。「私」は先生で自分のことを「先生」と言う。いちいち書いても始まらないが、この小学校は変である。そのうち、避難するのは地震ではなく、学校にカラシニコフを持った卒業生が現れたからだとわかる。先生は子供たちをてんでに逃し、卒業生と対峙する。銃は松葉杖であった。

卒業生は在学中の先生のお為ごかしの励ましをなじり、自分の小説家デビューを邪魔してるのは先生だと言い始める。そして・・・ああ、もう筋追いはやめる。

普通だったら、やめやめ、なんじゃコレは! というところなのに読めしまう。なぜ?

言っておくが、コレは夢の話ではない。不条理な話なのだが、カフカではない。何かを想定した寓意では勿論ない。SFでもない。

なんだろう。

この自動筆記のような展開は。ただひたすらズレていくストーリーは。そのズレにひたすら真摯に付き合う「先生」の心情に、いつか寄り添って、もうどんな状況になっても不思議に思わず、「先生」の対応を固唾を飲んで見守る読者である僕は。

なんだろう。

「新人賞の下読み」だけはしっかりやってほしいと願う僕は、いったいなんだろう。

村上春樹は羊男から始まって、多和田葉子は犬男から始まった。そう言えば、安部公房に箱男がある。この読後感は「壁」に似ている。あれもわかんなかったが、スルスル読めた。

ドイツ語文学の最高峰にムジールいう人が書いた「特性のない男」という本がある。勿論僕は読んでないが、「特性のない男」の題名には惹かれる。特性がないのに、その男の何をどう語ろうと言うのだろうか。小説で語ると言うことは、登場人物の特性を語るはずだろう。なのに特性がないって。

矛盾したことを言う。特性のない男のことを書けるのは、おそらく文学だ。

少なくとも多和田葉子は文学を信じていることだけは間違いがなさそうである。文学でしかできないことをやってる感がある。
文学しかできないことって何か。言葉を使って言葉にできない思いを語るのが現代詩なら、言葉を使って言葉でしかできない世界を語るのが多和田葉子だ。

極北である。


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