モンゴル紀行 その2

銀行で両替をして、天津の駅から電車で北京に向かった。銀行の両替の姉ちゃんの対応はお世辞にも良いとは言えず、駅のベンチの寝心地はそりゃもちろんサイテーで、おかげで寝不足で、外の気温は30℃を超えている。背負っているバックパックを放り出してその場にへたり込んでやろうかと、やり場のない怒りがフツフツと腹の底から沸いてくる。 それにしても中国は、高校生の時に来た頃と比べるとすっかり様変わりしていた。高層ビルがニョキニョキとそこら中に生えている一方で、その隙間を縫うように古い木造の建物が佇む。空は低くなり、道幅もすっかり狭くなっていた。

なものだからローカルな匂いはすっかりと薄れちまっていて、安宿を探すのにかなり苦労した。けっきょく力尽き、貧乏旅行にしてはかなり高級なホテルに泊まった。と言っても日本のカプセルホテルよりは安いのだけれども。昼くらいに部屋について、置いてあったなんだか怪しげなシャンプーを使ってシャワーを浴びて、パンツ一丁でテレビをつけた。それは中国のNHKのような番組で、どこかの国の野生の動物特集をやっていた。ジャッカルが野ネズミを咥えていた。いつの間にか眠りに落ちていた。ジャッカルに追っかけられる夢は見なかった。

目が覚めるとすっかり日は沈んでいて、街の灯がキラキラとしていた。気温はだいぶ下がり、街は夜の顔に変わっていた。メインストリートは観光客で溢れかえっている。なんだか道行く人達はみんな浮かれていて賑やかで、ひとり旅には居心地があまりよろしくない。おまけにどうやら出店は観光客プライスになっているようで、どれもこれもちと高い。かと言ってけっこう閉まっている店も多くて安い街のお店はなかなか見つからず、仕方なく逃げ込むようにデパートの中にあったバーガーキングを食べた。

近くに座っていたインド人はITの仕事をしていて、中国に仕事でやってきているらしい。どのメシもクセが強くて、やっぱり毎晩ここに来ている、と言っていた。いや、あなたの国のメシもなかなかクセ強い。ハンバーガーとスプライトで腹の中をタポタポさせながら、フラフラと賑やかな街並みを歩き回った。

奇妙なダンスを踊ってる街の人々やら屋台で売っているゲテモノなど、(胃袋と旅参照)そこそこ楽しめなくもないのだけれども…それでも何か突拍子のないことが起きる気配もなくて、かと言ってこのままサラッと北京を通過してしまうのもなんだか心残りでけっきょく、宿を変えて少し街はずれに行くことにした。どうやらハンバーガーとスプライトのせいだけではない、胃のあたりがムカムカする、なんとも言えないその居心地の悪さがいつのまにかつきまとっていた。

ところでこうして、何するともなく気のむくままにフラフラしていると、旅するために旅することの空虚さが突然、猛然と襲いかかってくることがある。

「こんなことをして何になるってんだ?」

呼和浩特に着いた時は雨だった。夜行列車のくせにベットがなく、10時間も走り続けるのに車内は超満員。満席ということではなくて、立っている人も沢山いる、という意味で超満員なのだ。さながら通勤ラッシュ。おまけに大声をあげて車内販売のおばちゃんがカートを押してやってくるものだから、おばちゃん来るたび立っている人がワラワラと動き出す。寝られるはずもなく、着いたときには頭がポーッとして、身体中の節々が痛かった。

けっきょくあれから、北京の中心部から少し離れた安宿に移ってみたものの、それでもやっぱりなんとも言えない違和感は拭えず、これはもうとっととモンゴルを目指した方がいいのかもしれないな、という結論に至った。早速、チケットを買いに駅に出かけ、地図を片手にモンゴルに行くにはどうすればいいか、と尋ねまわった。北京の駅のセキュリティはなかなかに厳重で、至る所に警官が立っていて、中に入るには荷物検査がいる。写真を撮っていたらものすごい剣幕で怒られたこともあった。そんなピリピリとした雰囲気が、あるいは僕の違和感を呼び起こす原因の1つであったのかもしれないな、などといま考えれば思うのだが、当然、モンゴルへの行き方を聞こうにもみんな眉間にシワを寄せて面倒くさがるばかりでなかなか相手にしてくれない。

”この電車に10時間くらい乗って、ひとまず。呼和浩特ってとこに行くのよ”

と、駅構内の至る所でたらい回しにされた末に、ついにチケット売り場のおばさまがツッケンドンながらにも教えてくれ、”stand or seat?”と謎の質問をされる、seatと答え、その場でチケットを買い、夜発の電車で呼和浩特に行くことにした。

果たして、チケット売り場のおばさまは、モンゴルへ行くための秘密の呪文を唱えたわけではなく、ただ立って夜を過ごすか/座って夜を過ごすかと聞いただけであったわけであるのだが。そうして辿り着いた呼和浩特は内モンゴルの首府である。中国の領土ではあるが、そこを構成する民族や歴史は、僕たち島国民族ジャパニーズには到底理解できないほどの複雑であり、帰国してから知ったのだが、どうやらその当時も独立運動による紛争があったようである。


ところで、その呼和浩特の駅を下りてすぐのところに”李先生”といううどんみたいなラーメンを出すお店があった。麺は太く、もちろん豚骨ラーメンのようなコクも無く、もういちど機会があれば食うか、と言われれば食わない。けれども味はともかくとして、僕が中国語が喋れないとわかるや否や、笑顔の絶えない店員のおばちゃん達はわざわざ厨房にまで連れていってくれ、これ?それともこれ?どれにする?と親切にメニューを説明してくれた。

なんだか天津に着いてからの腹の中をねっとりと動き回っていたあのイヤな感じは薄らいできて、気がつくといくらか爽やかな気持ちになっていた。

雨宿りをする人々で停留所は人でごった返していた。そういえば、旅をしていて雨に出くわすのはいつぶりだろうか。そういう時はバックパックに雨避けカバーを被せ、コロンビアのウィンドブレーカーを着て、粛々と歩く。けれどもこの時は寝不足もあって、街を探検する気にもなれず、ごった返す停留所の中に辛うじてスペースを見つけ、バックパックの上に腰掛けウトウトとしていた。

「ウランバートルに行かれるんですか?」

いまちょっと疲れてるんだ、ちょっと話し相手は他で探してくれ…と寝たフリをして顔を下げたままにしようかと思ったけど、いや、よくよく考えたら久しぶりに聞く日本語じゃん!その男の人は元自衛官で、1週間ほどの休みを取ってモンゴルで馬に乗りにきたそうである。どうやらバスも同じバスで、しばらく同じルートを歩むことになりそうであった。

もはや、バスから見える景色は草原のみである。そこに一本の細い道がモンゴルの国境へと向かって果てしなく続いている。どれくらい細いかと言えば、車が2台通れないくらいである。なものだから、対向車が来るといちいち道から外れ、道なき道を走らなくてはならない。その日は前の日から雨であったから、バスが泥にハマり動かなかくなって乗客全員で押す、というのが何回かあった。中国人の乗客は一度も降りてこなかった。

そうこうしているうち天気はすっかり晴れて、国境の街に近づいた。ふと窓の外を眺めると、広大な草原の中にポツリポツリとでっかい恐竜のオブジェが置いてある。モンゴルは恐竜の化石がよく発見されることで有名である、という予備知識はあったから、おそらくそれを讃えているモニュメントのようなものくらいには予想ができた。それにしても実物大くらいの大きさのいろんな種類の恐竜がだだっ広い草原に50mおきくらいに、ポツリポツリと置いてある。ただそれだけなのである。そのあまりにも唐突であまりにも素っ気ない置き方に、なんだかゾクゾクとさせられ、いつまでも眺めていられるような美しさがあった。

街に着くとすっかり日は暮れていた。バス停で出会った日本人のお兄さんが”宿どうするの?と”話しかけてきてくれ”どっか安宿探します”、と答えると、”いーよ、俺が奢ったる。同じところに泊まろう。”と言ってくれた。泊まったのはたぶん僕の旅史上、最もゴージャスなホテルであった。見上げるほどにデカく、駐車場があり、ボーイがいて、エレベーターがあって…

閉まりかけのレストランに駆け込み、ご飯を食べながら自衛隊の日々についてあれやこれやと話を聞き、向こうも向こうで僕の旅の経路を面白がってくれた。部屋に戻るとマッサージを呼ぼうと言って(エッチなやつじゃなかったです。)2人でマッサージをしてもらい、おまけにその後キレイなお姉さんの沢山いるバーで(ちょっぴりエッチなやつです。)酒を大いに飲んだ。なんだこの、バブリーな時間は。

優雅な夜を過ごしたあと、フラフラとホテルへ戻ろうと歩いていると、ちょい悪オヤジに声をかけられた。

「おい、そこの兄ちゃん達。ウランバートル目指してるのかい?」
「あ、そうです。」
「俺たちもウランバートルに帰るとこなんだ。このジープに乗っていかないかい?安くするぜ。」

となって、バスで国境を越えてウランバートルに向かおうと思っていたのだけれども、なんだか面白そうだし安いしということで、このちょっと怪しげな提案に僕たちは乗ってみることにした。翌朝、その声をかけられた場所に僕たち2人は向かった。

旅をしていると予期せぬ出来事との出会いがしばしばあって、それはとても刺激的で楽しいのだけれども、わーいわーいなんて呑気にはしゃいでいるとけっこう面倒な事態に巻き込まれていることに気がつかなかったりする。

おっちゃんのジープは運転席と助手席を除いて荷物で溢れかえっていた。そこに、出発時間が近づくにつれておっちゃんの親族らしき人が1人また1人と増えていく。僕たち2人、おっちゃん、お姉ちゃん、その旦那さんと息子、青年…計7人。その7人が運転席と助手席に乗るのである。僕の頭は天井にまで達し、体育座りしたお姉さんが僕の足下に座っている。こんな姿勢で乗っていたらエコノミー症候群の騒ぎではない。僕たちは顔を見合わせ、おいおいおい!とアイコンタクトを取りながらも、でもどこかそのわけのわからなさを楽しんでいた。その時までは。


税関に到着するまでに15分くらいであった。思っていたよりもずっと近くに税関はあるようだった。なんだ、車に乗ってる時間なんてほとんどないじゃないか!とホッと胸をなでおろし車を降りて外に出てみると、なんとそこには約1,000台くらいの、同じように大荷物を抱えたジープが並んでいた。それは人身事故が起きた時の駅のホームさながらの景色であった。辺り一面、ジープ、ジープ、ジープ、である。おやおやおや?雲行きが怪しいぞ?

その時期は、中国へ出稼ぎやら買い出しに出かけたモンゴルの人々が故郷へと戻る時期であるようだ。いわゆるUターンラッシュというやつである。んでもってその交通手段といえば、道が整備されておらず…というか少し都心から外れればすっかり砂漠であるモンゴルを移動するにあたって、軍用の中古ジープに乗って商売する人が多いらしい。 そんな、少しガタのきているカッチョいいジープが、広い空の下に大量に集まっている様子は壮観で、僕はとんでもなく嬉しくなってしまった。けれども僕の連れは、そんな呑気なことを言っているほどの時間は生憎なくて、その果てしなく並ぶジープを眺めて絶句していた。隣を昨日まで乗ろうと考えていたバスがビュンビュン通り過ぎていく。どうやらバスとジープでは、手続きの仕方が違うようであった。彼の表情から少しずつ輝きが失われていった。

いっこうにジープが進まない。税関では荷物を1つ1つチェックしている。この大量の車たちの、それぞれに積まれている大量の荷物を調べるのだ。腹は減るし、することはないし、一緒にいる子供は泣き出すし…いや僕にはしょっちゅう訪れるシチュエーションであるのだけれども、連れの表情が明らかに険しくなっているのがなんだか巻き込んでしまった気がして申し訳なかった。

「ちぇっ、予定狂っちゃったよ。今日中にはウランバートルに着く予定だったのに。」

一緒にいるのがなんとなく気まずかったので、僕はカメラを片手にフラフラとジープの合間を縫っていろんな家族といろんな荷物を見物することにした。家族で中国に大量の物資を買い出しにいく。その多くはおそらく商売を目的としたもののようである。家電製品、オモチャ、衣類、食糧…そういえば商売ってのはモノを売ることなんだよなー、そうだよなー、と1人なぜか妙に納得したりした。

しばらくして戻ってみると、ジープは相変わらず分速30cmくらいのスピードで動いてるみたいだったけれど、連れがどこがで肉まんを見つけて買ったらしく、少し機嫌が良くなっていた。

「まーイライラしてもしかたないよな、話のネタが増えたってことにしよう。」

そうなんだよなー、けっきょく落ち込んだりイライラしたところで人生はなにもはじまらないんだもんなー、行動あるのみだよなー、と肉まんを頬張る彼を見ながらまたまた妙に納得していると、

「スミマセン、日本人デスカ?」

と日本語ペラペラのモンゴル人に話しかけられた。昔、2,3年ほど滋賀で働いていたことがあって僕たちの話す日本語を聞いて懐かしくなり、話しかけてくれたらしい。(ちなみに、ビザを発行していないのがバレて本国に強制送還されてしまったらしい。)

ウランバートルに一刻も早く着きたくて、バスではなくジープを選んでしまったことは痛恨のミスであった旨を伝えると、

「僕も今晩、夜行列車でウランバートルに行くけど一緒に行く?」

と、なった。なんだかジープに誘われた時とシチュエーションが似ているような気もしたけれど、何より日本語を喋れる地元の人はこのバッドシチュエーションにおいてかなり心強い味方に思えて、

「うん、お願い!」

と彼とその日本語ペラペラモンゴル人は堅い握手を交わした。(その3につづく)

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