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雑記(五三)

 誰かに言われた言葉が、ずいぶん後になってから、実は重大な意味を持っていたことに気づく、ということがある。ああ、あのときのあの言葉は、このことを言っていたのか、というようなことである。

 たとえば、大岡信の『紀貫之』(ちくま文庫)の「あとがき」には、大岡が山本健吉に言われた言葉が紹介されている。

「正岡子規に罵倒されて以後の貫之の評判の下落ぶりについては、今さらここで繰返すまでもない。この本を書くことが決ってから山本健吉氏にお会いした折、「なにしろ子規以来のことだからね」と氏が言われたのも、そういう事情をふまえてのことだったが、この言葉は私にいろいろな意味でよい刺戟となったように思われる。評判が悪く、研究書も少ないような人を論じるのは、やり甲斐もあるし楽しみの多い仕事である。子規について書くことからこの本を始めたのは、そうすることが最も自然に思われたからだが、またそのような始め方が、結局本全体の書き方、トーンを決めたように、今となっては感じられる」。

 おそらく山本自身は何気なく発したであろう言葉が、後になって、大岡の執筆にとって大きな意味を持つ言葉であったことが明らかになった、という。実際、同書の最初の章「一 なぜ、貫之か」は、貫之論の入門編でもありながら、和歌革新を志した子規についての論にもなっていて、最終的には、子規の貫之への評価を相対化することによって、深度のある貫之論として着地しているように思われる。

 あるいは、小林秀雄の『本居宣長』(新潮文庫)のはじめに、小林が折口信夫の「大森のお宅」を初めて訪ねたときのことが出てくる。

「「宣長の仕事は、批評や非難を承知の上のものだったのではないでしょうか」という言葉が、ふと口に出て了った。折口氏は、黙って答えられなかった。私は恥かしかった。帰途、氏は駅まで私を送って来られた。道々、取止めもない雑談を交して来たのだが、お別れしようとした時、不意に、「小林さん、本居さんはね、やはり源氏ですよ、では、さよなら」と言われた」。

 大岡の『紀貫之』が筑摩書房の「日本詩人選」の一冊として刊行されたのは一九七一年九月。小林の『本居宣長』は、十一年以上の連載を経て、一九七七年十月に新潮社から刊行されている。両者は、同時代の著作と言っていい。山本が折口の弟子であるのも、面白い。

 また、三浦雅士の『寺山修司』(新書館)の「あとがき」には、三浦が寺山から言われた言葉が見えている。

「亡くなられる数ヵ月前のことだ。寺山さんのお宅で夜遅くまで話し込んだことがある。表通りまで見送りに出た寺山さんに、自分なりに力を込めた寺山修司論を書くと約束すると、寺山さんは照れくさそうに笑ってから、不意に、「橋本多佳子って読んだことある?」と尋ねてきた。首を傾げると、「いまの人はもう読まないのかなあ」と呟いた。――「鏡のなかの言葉」を書き終えてからしばらくして、突然はっきりとそのことを思い出した。それまでは完全に忘れていたのである。思い出した瞬間に胸が騒いだ。なぜそのとき私にそう尋ねたのか、その意味が明瞭にわかったように思われたからである」。

 小林と三浦の記述は、よく似ている。折口の「大森のお宅」と、「寺山さんのお宅」。「帰途、氏は駅まで私を送って来られた」という様子と、「表通りまで見送りに出た寺山さん」。三浦は小林を意識している、というのは、考えすぎだろうか。

 それはともかく、大岡信が紀貫之について考えるときには、山本健吉が必要だった。小林秀雄が本居宣長について考えるときには、折口信夫が必要だった。逆説的にではあれ、その言葉が大きな意味を持ったのである。そして、三浦雅士が寺山修司について考えるときには、他ならぬ寺山修司の言葉が必要だった。このことは、寺山の言語世界の特異性をあらわしてしまっているのではあるまいか。「完全に忘れていた」などということは問題ではない。思考はつねに、本人が自覚する以上の展開を持つからである。

お気持ちをいただければ幸いです。いろいろ観て読んで書く糧にいたします。