『寝ても覚めても』の幻想と不信
映画『寝ても覚めても』は、ひとりの人間が他の人間にとって曖昧な存在でしかないことを示している。私はあなたのすべてを知り尽くすことはできないし、あなたも私のすべてを知り尽くせはしない。それでも私はあなたを、あなたは私を、くまなく知りたいと思う。それは、あなたのことを知るということがあなたについてのことを情報として入手するということであり、情報の入手は対象の支配につながるからだろう。情報の独占によって、完全な支配が実現する。完全な支配が可能なほど、単純な人間がいるとは思えない。あらゆる人間は、私というひとりにとって、つねに曖昧である。
最初の舞台は大阪である。朝子(唐田えりか)は写真展の帰り道、麦(東出昌大)という青年に出会う。爆竹を破裂させて駆け去ってゆく子どもたちの向こうに、白い服を着た麦が立っている。麦は朝子に目を留めると、迷いなく朝子のほうへ歩みより、迷いなく接吻する。朝子もそれを陶然と受けいれる。二人は初対面である。この出会いの場面は鮮烈で、朝子にとって麦が特別な存在であることを否応なく、示してしまう。しかし鮮烈であることは、謎を多分に含んでいることと矛盾しない。なぜ麦は朝子に接吻したのか、朝子はなぜそれを受けいれたのか、説明的な描写はない。ただ二人の行為の鮮やかさが、観客を納得させてしまう。そうして朝子と麦は、付き合いはじめる。
これは明らかに詐術的である。詐術的であることが悪いわけではない。ただ、詐術的であることはまぎれもない。この刹那、ふたりの間に起こったことが、精密な論理に裏づけられた必然であったかのように見せかけられていることが、一種の詐術なのである。お互いの一目惚れ、としか説明のしようがないが、しかしそれではまったく説明にならない。だのに、観客はこの事態を受けいれざるをえない。この状況はそのまま、人が人にどうしようもなく恋をしてしまうということ、そこから逃れられなくなってしまうということ、そして多かれ少なかれ、それを認めながら生きていかねばならないことの不条理を示してもいる。恋のはじまりは説明不能なものであることを、映画はのっけから極端なかたちで示しているのだ。
その意味では、麦と朝子のなれそめを「んなわけあるか!」と一笑に付す岡崎(渡辺大知)の健全さがまぶしい。路上で抱きあい、麦が朝子を抱えあげてくるくると回る姿を、岡崎は二階から見つめる。岡崎はただ植物に水をやる。その岡崎、恋愛的な関係に参入しない岡崎が後半、難病のALSに冒されて寝たきりの状態で登場することは示唆的である。動くことがかなわなくなった者がいかにひとを愛し、ひとから愛されるかという問題も伏流する。明らかに東日本大震災を思わせる地震の発生も、良平と朝子の関係の重要な契機となる。ひとが愛し合うとき、たとえ没我の境にあっても、その関係からこぼれ落ちてしまう存在を無視させまいと、映像は訴える。
麦は朝子に優しく、朝子も麦を素直に愛す。しかしある日突然、麦は姿を消す。朝子は麦を忘れられないまま、大阪から上京し、東京の喫茶店で働きはじめる。そして近所の会社に勤務する亮平(東出昌大)に出会ってしまう。亮平は麦に瓜二つの外見で、朝子は思わず、ツッコミの口調で「麦やん」と呟く。その様子を、亮平はいぶかる。関西弁を使う亮平の口調は麦のそれとはだいぶ違うが、麦と同じ姿の亮平に、朝子は惹かれていってしまう。そしてそのとまどいを秘めた朝子の態度に亮平も気づき、朝子のことが気になりはじめ、いつの間にか亮平も朝子に惹かれてゆく。
朝子の友人のマヤ(山下リオ)、亮平の同僚の耕介(瀬戸康史)も含めた四名で食事をすることになり、亮平と朝子は徐々に接近する。やがてマヤと耕介、朝子と亮平は交際を開始し、幸福な時間が訪れる。一方そのころ、朝子の前から姿を消したきりだった麦はモデルとしての活動が人気を集め、その容貌が世間に知れわたるようになる。そして亮平と朝子が結婚しようというそのときに、麦が朝子のもとを訪れる。マヤ、耕介らとで食事をしていたとき、不意に現れた麦は朝子の手をとり、朝子を車で連れ去ってしまう。このときに手をとられた朝子は、抵抗することなく麦の強引さに従ってしまう。
朝子にとっては、一切が謎である。麦と酷似した外見を持つ亮平が存在しているということも不思議なら、その亮平が自分の身辺に姿を現わすことも異常である。そして麦も亮平も自分に好意を示し、交際が開始される。目の前の人間は、私が最初に愛した麦なのか、それとも亮平なのか。現在と同じであるはずのない過去が現在にかさなり、現在とは異質なはずの過去が現在に侵入する。
あの、とらえどころのない、なぞめいた、そのゆえに魅力的でもあった麦は、パンを買いに出かけると言って翌朝まで帰らないような、気まぐれな行動をとるひとだった。それに対して、いま目の前にいる亮平は、堅実で臨機応変で気のきく好青年である。亮平が麦よりも前に朝子の前に出現していたら、朝子は亮平を心から愛し、信じることができただろう。しかし、亮平はほんとうに麦ではないのか、麦はほんとうに亮平でないのか、確信が持てない。どうやらふたりは別の人物のようだが、それならばなぜ、こんなに似ているのか。結局、朝子は、麦という存在のせいで――あるいは麦を愛してしまった自分のせいで――亮平を信じきることができない。
しかし朝子にとってのこの謎は、言うまでもなく、亮平にとっても謎である。なぜ私によく似た外見の麦という人物が存在しているのか、ましてスターになって世間にその容貌が知れわたっているのか。そして、私が愛する朝子というひとは、私よりも前に、よりによってこの麦を愛していたという。このめぐりあわせは、なぜなのか。私と朝子は、偶然に出会ったわけではないのか。朝子が麦に連れ去られた後の、それをしばし見送るほかない亮平の目つきの、何と恐ろしいことか。謎は、それを思い悩む者にとってのみ謎である。平然と姿をくらまし、平然と出現する麦にとって、この事態は謎としての迫力は持つまい。謎は、ただ亮平と朝子のふたりの間に不信をもたらし、関係を破壊する。
この寓話的な物語が単なる荒唐無稽なスリルサスペンスに終わらないのは、人間対人間の一対一の関係の固有性、唯一性が、実は非常に脆いものであることを示してくれているからだ。設定の不自然さは、末節のことに過ぎない。麦が朝子を連れ去り、朝子が抵抗せずにそれに従ったとき、亮平は虚脱感と怒りに苛まれる。朝子は亮平を愛しているように見えながら、実は亮平の外見だけにとらわれていたのであり、亮平との現在を透過して麦との思い出を楽しんでいたに過ぎないと感じるからである。愛されていたのはあくまでも麦であって、亮平はあくまでもその愛情の触媒に過ぎなかったと感じるからであろう。
しかし事態は、逆から見ることもできる。麦を愛していた過去が朝子にあったからこそ、同じ外見の亮平は朝子に愛されることができた。朝子との会話から察するに、ここまでは、亮平も気づいていることだ。だが、もっと徹底させて考えることもできる。今ここには存在しない麦の幻想のおかげで、今ここに存在している亮平の心身は朝子に愛されたのである。つまり、おそらく麦がいなければ亮平は朝子と愛し合うことはなかった。とすれば、亮平の怒りや虚脱感も朝子への愛ゆえの感情であり、それもこれも麦という存在なくしては生まれえなかった。遠目に見れば、麦を恨むのは本末転倒なのだが、ただ、朝子と愛し合った日々がすぐに消えるはずもなく、返礼的に朝子を差し出すわけになど、いくはずもない。感情と時間は量的な価値で計算ができない。
ことは恋愛に限らない。師弟、同僚、親子のどの関係を取っても、目の前の人間が私に対して持つ感情や印象は、そのひとがどのような人間に会ってきたかに規定されている。たとえば私は、目の前にいるこのひとがこれまでに会ってきた人間たちよりも、劣っているかもしれない。その者たちと比較されて、私は損をしているかもしれない、と思う。しかしその者たちがいたからこそ、私はこのひとが感情を差し向ける対象として認知されたのかもしれない。そう考えれば、私よりも前にこのひとに出会ったひとびとに、私は感謝こそすれ、恨む必要はない。
恋愛の例にもどれば、こういうことだ。今の私の恋人は、私に出会う前に交際していた相手を、今の私よりも深く愛していたかもしれない。しかしもしその過去がなければ、私がいま、このひとに愛されることはなかっただろう。以前の交際相手との経験をふまえて、この恋人は新たに、私に心を許したのである。恋人の過去の交際相手に嫉妬することの愚かしさは、ここにある。その者なしには、自分も愛されなかったはずだと考えるべきなのだ。その経験も含めて、今の恋人を愛せばいい。むしろ、それしかない。
麦の車で東北へ連れ去られた朝子は中途で翻意して車を降り、麦に別れを告げる。何とか亮平の家にたどり着いた朝子を亮平は拒絶するが、ラスト、ふたりは二階の窓から川辺を見下ろす。亮平はもう、朝子のことを完全には信頼できない、と言う。朝子をふたたび迎えることは、亮平にとって苦渋の決断の結果としてある。しかし亮平が朝子に不信を抱くということは、ようやく亮平が朝子の状態に追いついたということでもある。朝子は亮平との関係のはじめから、亮平に惹かれ、亮平を愛しつつも、麦の影のちらつく亮平を完全には信じられなかったはずだ。ここではふたりを、互いの不信がむすびつける。
この関係は、舞台俳優のマヤと、その舞台の映像に遠慮のない批判を浴びせた耕介が急に距離を縮めたことと、相似形をなす。マヤと耕介は、朝子と亮平よりも先に、互いが互いをどう見せるか、ということの重大さに気づいていた。ふたりの人間が心の底まで完全にわかりあうことは原理的に不可能だが、たとえ錯覚だとしても相互理解の成立を確かめるためには、互いの行為を示しあい、見あうしかない。行為が本心の反映か否かということは、反証しようがない以上、問うても仕方がない。ただその行為が遂行されたこと自体を信頼する他はない。本心と行為の結びつきという不確かなものを引き受けながら行為を見せ合うところに、人間の関係が成立する。不信は前提なのであって、その関係を演劇が象徴する。濱口の作品でいえば『親密さ』(12)で最も顕在化した主題だろう。
柴崎友香の小説が映画化されるのは、行定勲監督の『きょうのできごと』(04)以来であるという。中沢(妻夫木聡)、真紀(田中麗奈)、けいと(伊藤歩)、かわち(松尾敏伸)、正道(柏原収史)、ちよ(池脇千鶴)、西山(三浦誠己)、坂本(石野敦士)、山田(山本太郎)とその女(椎名英姫)らの恋愛的な関係を、日常的な光景を切り取るようにして描いた佳編だった。映画の終盤、中沢と真紀は、中沢がかつて通っていた小学校を訪れる。「なんでここに連れてきてほしいって言ったかわかる?」と訊ねる真紀に、「なんで?」と中沢が返す。真紀は、あんたのこと、なんでも知ってたいねん、と答える。
すべてを知りたいという無邪気な愛の様相と、不信を抱えながらの愛の行方が、二作を照応関係に置くようだ。二作を分けるのは人間の関係に対する洞察の方向性である。若者たちは、互いを曖昧な存在としてしか理解できないことを自覚しはじめた。
東出昌大の端正な顔貌や水辺の風景がもたらす不穏な印象が効いていて、抑制的な演出は提示する問題の複雑さによく耐えている。その緊張が、心地よかった。tofubeatsの音楽も忘れがたい。
2018年、濱口竜介監督。
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