見出し画像

悲劇は喜劇『ハウスオブザ・ドラゴン』S1E8

 『HOTD』シーズン1エピソード8「潮の王(Lord of the Tides)」の感想。ヴィセーリスのエピソードとしては完璧だが……。

次男サーガ

 ヴェイモンドがギャグみたいに死んでいったが、あれは「殺されること前提で真実を叫んだ」らしい。レーナといい、誇りある自決が多いヴェラリオン。
 海蛇一家から「わずらわしい説教男」扱いされていたヴェイモンドだが、重要なのは、彼が長男ではないこと。原作設定を変えたシーズン1は「次男コンプレックス」をスルーラインにしている。兄からの存在肯定を求めるデイモン、次男ゆえに実家で権力欲を満たせなかったヴェイモンドとオットー、身体障害による「男失格」被差別のラリス。『HOTD』において、暴力によって状況をカオスに導く者は次男だらけだ。
 そして今回、デイモンは「こうあるべきだった兄弟愛」を示し、ヴィセーリスとのサーガを一件落着させたように見える。しかし新たに勃発したのがエイモンドとの関係性である。"daemon"と"aemond"はアナグラム。この二人は、世代を超えた次男の鏡である。TV版だと「ママっ子」という共通項もできた。ここからはファンセオリーだけど、おそらくデイモンの生育歴はエイモンドと似通っている。父親がネグレクトする家庭で、味方は母親しかいなかった(デイモンの場合、母は幼いころに急逝/エイトンドの場合、少年時代すら兄弟仲が良くなかった)。二人は剣技を磨くことで父親の注目を求めたのかもしれない。結果「暴力で伝えようとするコミュニケーション法」がしみつき、家族に波乱をもたらす存在になる。

引き継ぐけど引き継げない新世代

 ep8のテーマは「大人になる子どもたち」。新世代の子どもたちは、家族の歴史を知らない存在でもある。なりゆきの重要性を理解する大人たちが平和につとめる晩餐会で、ルケアリーズとレーナは豚とエイモンドのツーショットを嘲笑う。かつてルークから豚と蔑まれ片目をえぐられたエイモンドは大人たちお構いなしで開戦をはかった。

作中随の一美形設定たるエイゴンは、大人キャストにメイクをほどこすことでチャッキー化。ゆがんでしまったパーソナリティ

 機能不全を示すかのように、子どもたちは親のネガティブな面を継承してしまっている。玉座ゲームによって友情が引き裂かれたヴィセーリス&デイモン、レイニラ&アリセントの関係が移った先は、エイゴン&ジェセアリーズ。それぞれ「先天的カリスマ」と「後天的ハート」に偏る二人が王と王の手になれば、レイニラ治世のあと波乱政局が起きようとドラゴンハウスは衰えにくくなる(今回、ヴィセーリスは王の手にデイモンを選ぶべきだった強調がなされている。オットーは王の話を聞かず自分が玉座に座る。デイモンは手をとって王を玉座にすわらせる。レイニラとアリセントも同様で、結託すれば強くなる二人)。
 エイゴンの性暴力にしても、ヴィセーリス、レイニラのコピーになっている。全員が権力格差に無頓着であり、立場上はっきり拒否できなかった被害者に対する態度は世代ごとに悪化している。
 エイゴンの母子関係に関しては、前回の感想で書いたことそのまま当たった。子どもの愛し方がわからないアリセントがもっとも「あるべく親」らしい感傷的肯定をした相手は、息子の被害者たるダイアナである。「あなたは悪くない」言葉と抱擁、権力格差への理解、避妊といった対応は、かつての彼女が求めていたものなのだろう。その後のエイゴンに対する暴力的な拒絶反応ふくめて、児童婚および性暴力の長期的影響をあらわしている。

ドラゴン版『ロミオとジュリエット』

 前回のアリセントは「義務」遂行が加害になる事実に気づき「もう自分が得られるのは父の愛だけ」モードに陥ったらしいが、空白の6年間で自身を傀儡化するオットーへの期待もそがれた。結局人生でパートナーと思えたのはレイニラだけだから、潜在意識では彼女の訪問にウッキウキという流れらしい。実際、作中ほぼ笑わないキャラクターなのに再会時点で笑顔を見せ相手の傷跡を気にしている。
 晩餐会での和解をいぶかしむ声もあるのだが、おそらく本当に通じあっていた。レイニラのスピーチは、思想のちがいを認めた上での愛、いたわり、そして謝罪が揃っていたからパーフェクトだった。ボディタッチするアリセントに対してレイニラが言った「ドラゴンで戻ってくる」の原語は"dragonback"。ep1の「ドラゴンに乗ってあなたを連れだす」発言と同じなので、二人にとっては特別なワードであり、だからアリセントが微笑むのだと思う。
 ショーランナーや監督の発言で感じさせるのは、シェイクスピア悲劇と謳われた『HOTD』の主人公二人が『ロミオとジュリエット』的構図であること。念押しされつづける作品テーマは「家父長制に引き裂かれた二人の女性」。親友間にロマンチックエナジーがあったのは言わずもがな。今回にしても、晩餐会で二人のあいだに「家父」たるヴィセーリスが座していること、夫としか触れ合えない二人は視線を送るだけであることなど、シンボリックな演出が多い。そしてTV版では、それぞれヴァリリア、ウェスタロスを象徴するターガリエン家とハイタワー家の文化衝突が際立たされている。七神正教やメイスターは、ドラゴンパワーによって規則適用外の「神化した人間」であるターガリエンへの不満が強い。争いあう家庭に生まれながら、レイニラはアリセントを「外」に連れだす約束をしていた。『ロミジュリ』。

人でありすぎた王

 製作陣は家父長制という言葉をよく使うが、持続不能に陥った君主制の物語でもあるだろう。それをあらわすのが、今回の主役、ヴィセーリスの人生。大評議会の構図を変更したTV版では「レイニスが継承すべきだった」疑惑がより濃くなっている。男性ゆえに選ばれたヴィセーリスは王になりたくなかった家父であり、男子継承主義ゆえに幸福を喪った犠牲者でもある。
 ドラゴンの力を危険視する学者肌の男は「義務」として王政をになった。全員を幸せにしようとするあまり問題に対処せず「見て見ぬふりの強制」まで行うスタイルは、王権の使いどころを誤っている。演者パディ・コンシダインに「王じゃない王」と語られたヴィセーリスは、今際の際ではじめて「王」になった。そのオーダーが「王としてではなく一人の老人として」発せられた事実は、やはりコンシダインの言う「王になるには人間でありすぎた」男の人生そのものである。
 ラストのプロットツイストにしても、ヴィセーリスの決算としては筋が通っている。彼の問題は、隣人、とくにアリセントの子どもたちを放置したこと。そして「言葉にしてこなかったこと」である。レイニラすら、責務を果たす父を見たのはep8がはじめてだったという。そして結末。アンチ「義務」を定着させてしまった長女に対して、父であり王として「義務」を教える最後は感動的になるはずだった。しかし、娘の対極である「義務」を負いすぎて壊れた妻に新たな「義務」を上書きしてしまったのである。アリセントはep3で長男が生まれる予知を明かされたため、そちらと地続きの予言と受け止めてしまっていてもおかしくはない。最後の最後に誤解で状況を悪化させる結末は、ヴィセーリスが蓄積したネグレクトとミスコミュニケーションの結果になっている。また、ターガリエン王朝の名前使いまわし文化がなかったら起こりえなかったため、君主制への皮肉としても機能する。

悲劇は喜劇

 好評に終わったep8だが、オリジナル展開への不満も高まっている。『炎と血』の伝承では、ヴェイモンドの死はレイニラが指示したものとされ、もっと残虐だった。レーナー生還、エイゴン性暴力もつらなり、原作ファンが好む「白黒つかないグレーで複雑なキャラクター像」が損なわれた、という不満が膨張したのである。具体的には「TV版はレイニラを"ガールボス"として白塗りしている(単純なフェミニズムヒーローにしている)」「翠をヴィラン化させて黒を善良に見せている」etc。
 個人的に興味深いのは、とくに女性ファンから、主人公二人の受動性、いわば「犠牲者」描写に不満があがっていること。現時点だと、原作で彼女たちの悪行とされていた行為は「デイモンやオットーによるものだった」展開が多い。そのため、一部原作組で「憤怒して悪事を働くことすら女性にはできないのか/男性まかせなのか」といったフラストレーションが膨張した。「悪女」として殺しを厭わなかったサーセイ・ラニスター再評価の熱も増しつづけている。
 とはいっても、自分は主人公二人の描写には肯定派。サーセイに足りなかった生育歴、アダルトチルドレンの描写として丁寧だと思う。ただし、ep8に関しては引っかかるところもあった。前述どおり『HOTD』は「家父長制に引き裂かれた二人の女性」テーマ。この「家父長制の犠牲者」構図を守りながら二人の敵対を進めなければいけない都合上、装置じみた『トムとジェリー』みたいになってない? と感じたのが、アリセントの予言誤解。状況と演技的に、生きる意味再発見くらいの勢いで復縁に喜んでいたのに、あれ聞いてあんなに急変するか?という疑問が……。介護経験により薬で意識混濁しがちなことは知っている(すこし考えれば思いつく)だろうし、長男はリーダーに不向きだと身をもって知ったあとだし、レイニラとちがって「世界を救う大義」は抱いてなさそうなキャラという。ニラにひとこと相談すれば解消されるメタ事情ふくめて「あらたな義務スイッチ入っちゃいました」な切り替わりが装置じみたギャグに見えてしまう。納得できる補足がなければ、血で血を洗う抗争されても「こいつらバカみたいな誤解で戦ってるんだよな」とよぎりかねない不安……。
 ただ、前述の『ロミオとジュリエット』にしても、演出によってはコメディ化する誤解で破滅にいたる物語。ミスコミュニケーションで崩壊してく『ハウス・オブ・ザ・ドラゴン』とは「近くで見れば悲劇だが、遠くから見れば喜劇(チャーリー・チャップリン)」なのかもしれない。

前回感想


よろこびます