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印刷屋

3年ぶりに地元に戻ってきたある夏の日。
僕は10年以上ぶりに5つ隣の町の図書館に行くことにした。

駅を降りて図書館への道のり。
商店街を歩く。シャッターは目立っているけど、お店は昔と変わっていない。

商店街を抜けると、住宅街が続く。
住宅と言っても、新しくない。あの頃の懐かしい家が続く。

左手に小学校のグラウンドが見えてくる。
右手に「○○印刷」と書かれた、看板が見えてくる。

僕はドキッとする。
あの頃の恋をしていた気持ちも何も変わらず僕の中にいるのだ。

そう、ここの印刷屋さんの娘さんだった。
この近くの塾で知り合った同級生の女の子。
目が多くて、いつもシャンとした姿勢で授業を聴いていた。

ここの前を通ったら、あの娘に会えるんじゃないかって期待してた。

「ペットは飼ってないよ。
 私の家、印刷屋だから、機械に毛とか入っちゃダメなの」

彼女はそう言っていた。

「でも猫は好きだから、いつか猫は飼ってみたいな」

僕は猫を想像する。
なぜか灰色で目が青い猫が思い浮かぶ。

その瞬間、目の前を灰色の猫が本当に横切った。
その猫は○○印刷屋の中に入っていこうとする。

あ!と僕は小さな声を出す。
灰色の猫はこっちに振り返る。
青い目をこちらに向ける。

僕はその目に釘付けになる。
猫はすぐに顔を戻して店の中に入っていく。
僕はその猫を追いかけずにはいられない。

印刷屋の中には誰もいない。
たくさんの古びた機械が置いてある。

奥の方に黒いシートがかけられている。
僕はその黒いシートを引っ張ってしまう。

黒いシートの奥から、黒い金属に浮き出るように文字が彫られた棒がたくさん出てくる。
活版印刷だ。この文字を組み合わせて、文字を印刷していく。
日本語は漢字もカタカナもあるから、その組み合わせは膨大なものになる。

僕は自分の名前の漢字を探す。
そこにあった小さな紙に自分の名前を印刷する。

金属から放たれた自分の名前は、青空に打ち上げられた花火のように見えた。
この夏の蒸し暑い空気も閉じ込められたように感じられる。

ふと気づくと、さっきの灰色の猫が青い目をこちらに向けていた。

「君も名前を印刷してほしいのかい?」

猫君は前足で顔を拭う。

「なんていう名前なんだい?」

もちろん猫君は答えない。

「じゃあ、青空花火でいいかな?
 さっきイメージが湧いてきたんだ」

猫君は特に興味も示さない。

「青空花火」と活版印刷する。
印刷した小さな紙を口に咥えて、猫君は印刷屋を後にする。
僕も自分の名前を持って、印刷屋を出る。

空を見上げる。
雲ひとつない青空が僕を見下ろしている。

恋心を胸にしまい、僕はまた歩き始めた。

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