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僕の左手と右手

深夜1時過ぎ、僕は燃えるゴミを出しに行った。
僕の部屋はマンションの二階にある。
だから、いつも階段を使って一階まで降りている。
エレベーターは、相当疲れている時と荷物が多い時以外は使わない。

階段から外に出て、ゴミ置場まで数十歩。
歩いているときに、マンションの玄関の前を通る。
その日も、ゴミ袋を持って玄関の前を通りかかった。

今は深夜の1時。いつもなら誰もいない。猫だっていない。
ただの蛍光灯の灯と、月明かりと、夜空と、コンクリートの建物だけ。
だけど、その日は別の者が混ざっていた。
マンションの玄関に、大の字で人が寝ていたのだ。

ゴミを出しに行った後、慌てて玄関の方に戻る。
やはり、まだ人が寝ている。
肩幅の小さな体つきから推測するに女性だった。
服装は上下グレーのスーツで、黒のシンプルなパンプスを履いている。

ただ、顔が分からなかった。
顔に仮面をつけていたせいだ。
白い仮面。キャラクターや動物をあしらっていない。ただの白い仮面。

「大丈夫ですか?」と僕は声をかける。
何度かそれを繰り返すと、仮面の女性はモゾモゾと体を動かし始め目を開いた。
仮面越しに僕と目が合う。
白い仮面は、瞳の黒さと輝きを強調させた。

「こんなところで寝てたら、風邪引きますよ」と僕は言った。
「コーヒー」と女性は言った。寝転んだまま僕を見つめて。
「コーヒー?」と僕が言うと、女性は頷いた。
頭を起こすために、コーヒーが飲みたいのだろう。

僕はマンション前の自販機で缶コーヒーを買う。
ホットのブラックコーヒーにした。そっちの方が目が覚めると思ったのだ。
120円だったから、150円を入れて、30円のお釣りだった。

仮面の女性は寝転んだまま、僕が買ってきたブラックコーヒーの缶を見た。
しばらく見つめたまま、吐き出すようにこう言った。

「優しくないのね」

仮面の女性は起き上がって、僕の缶コーヒーを手にとった。

「優しくない人には、素顔は見せないことにしているの」

そう言い残して、仮面の女性は玄関が出て行った。
僕は何も言うことができなかった。

僕の右手には10円が3枚、左手には缶コーヒーの余熱。
その日僕が手にしたのは、たったそれだけだった。
それだけを握りしめて、僕は立っていた。

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