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珈琲の作り手の思い

手回しロースターで焙煎した珈琲豆を販売し始めてそろそろ1ヶ月です。
今更ですが、珈琲を作る者として、珈琲にどんな思いを込めて作っているのか、理想とする、目指している珈琲を考えました。
一方的な思いではありますが、物作りにおける一方的な思いは、物に対する責任と表裏一体なのかもしれません。
きちんとお伝えしておかねばと思いました。

珈琲を飲めるようになるまで

珈琲を飲めるようになったのがいつ頃からか、覚えていません。
タリーズでアルバイトをしていた頃は飲めませんでした。
海外を回っている時に少しずつ飲んでいたような気がします。
試しに旅中の写真を全てザザーッと見返してみました。
すると自分でも知らなかった事実に気付きました。

私はそこかしこで、ミルク入りのアレンジコーヒーばかり飲んでいました。

これは個人的にかなり衝撃でした。
各国で休憩がてら、WiFiを使うためにもカフェにはちょこちょこ入っていた記憶なのですが、いろいろなところでカフェモカ(一番多かった)やらカプチーノやらを飲んでいました。

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マケドニアの首都スコピエで飲んだカフェモカ。クリームすごい。
(ちなみにマケドニアはマザーテレサの生まれ故郷)

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トルコ、カッパドキアにてカフェモカ。

そして全く覚えていませんが、イタリアのミラノで食後にバールでエスプレッソを飲んでいました。

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この時の感想に、「酸味があまりなくてまあまあ美味しかった」とありました。

一応飲めないなりにイタリアはエスプレッソの本場だから一度くらい飲まなきゃ!という意識があったようです。
そのあと旅中にブラックのコーヒーを飲んだ写真はありませんでした。
しかし「まあまあ美味しかった」とあるので、きっとこの旅中でアレンジコーヒー含めて「コーヒー」に対するハードルはグンと低くなったようです。

そして就職活動中は大手カフェチェーン店で自己分析やら何やらをやっていた記憶があるので、おそらくブラックのコーヒーを好んで飲むようになったのは帰国してから就活の始まる頃までの間なんだと思います。

そしてその就活の時期のカフェ利用が珈琲屋で過ごす時間の原型になりました。
もともと独り言を言う方で、ひとりでいてもあまり苦じゃないので、タイプ的に自己分析という作業に向いていたのでしょう。

美味しい珈琲を飲みながら過ごす時間

就職してからは仕事終わりに駆け込んだり、出先の合間で一服したり、たまに帰宅してから20時頃に珈琲屋に出かけたりと、何かと珈琲屋で過ごすことを癒しの時間にしていました。

たいていは何もしないでボーッとするか、ノートを開いてひたすら胸の内、頭の中のことを書き出して整理しながら考え事をしているか、読書をしているか。

そういうことを美味しい珈琲を飲みながら、落ち着いた雰囲気の中で行うことほど私にとっての贅沢はありません。
退職を決断する時は何度も何度も、答えの見つからない悩みをノートに書きつけたものでした。
そういう場所だと、褒めたくなるような良いことも、目を覆いたくなるような恥ずかしいことや悪いことも、ありのままを静かに受け止めることができるのです。
より心の奥深くまで沈み込んで、より多角的に自分を眺めて、これからの道を見極める。

「彼を知り、己を知れば、百戦殆(危)うからず」です。
地に足を着ける、ともいいますが、自分の信念のようなものをしっかり認識すると、自分はけっこう強くなれるんだ、と思います。
容易に弱くもなりますが。

そうして珈琲屋を後にする足取りはより軽く、より力強くなっているし、姿勢は伸びて、足下ではなく前を向いて歩けるのです。

珈琲屋でのそんな過ごし方を大切にしていることは、「珈琲 綴」という店名にした理由のひとつです。

自分の珈琲がどうあって欲しいか

珈琲屋でひとり、ノートに心の声を書き綴るとき。
心を乱さず、自分の内に沈み込むために、もしくはもう一人の自分と対話するために。
ただそばに、そっと静かに置いてあるような、それでいて確かにある心強さ、存在感。

「静かで強かな珈琲」でしょうか。
いまこれを書きながら思い付いたしっくりときた表現です。

酸味や苦味が強く無い、主張してこない。
地味で静かな珈琲。
しかし弱くも柔くも無い、質感と風味が確かな存在感をもって寄り添ってくれる。
強かな珈琲。

「強(したた)か」は、激しい強さ、決して屈しない強さ、という意味の他に、「自立した、しっかりした強さ」という意味があります。
ガツンとくる強さではなく、しなやかな芯のある強さ。
ただ「在る」というだけでいい。そばに在る。その心強さ。

「静かで強かな珈琲」

そんな珈琲を作り続けたいと思っています。

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