Wayne Shorter - Zero Gravityをみた
卓越した才能が伝わる唯一の媒体は作品そのものである。周囲がその作品の素晴らしさを伝えようと文字や画像、映像、音などで表現し直しても、陳腐化するか或いは別人の解釈に置き換えられてしまう。
あらゆるドキュメンタリーはそれが扱うテーマの劣化版だと私は考える。勿論、好意的に「入門編」と呼ぶことはできるので、存在価値がないとまでは言わない。
番組のテーマが自分の専門分野に近ければ近いほど劣化具合が良く見えてしまうので、私は基本的にミュージシャンのドキュメンタリーには殆ど期待しないし、今回も大体予想した通りだったと思う。
但し、Wayne Shorterの人生について時系列的に誤解していた部分もあったので、見たのは正解だったと思う。
特に何故彼が祈る人になったのかについては興味があったので、そこに触れてくれたのは良かった。勿論、それも一解釈であることには留意している。
基本的に私は殆ど祈らない人というか、祈る必要性の少ない半生を生きていて、それを幸運だとも感じているが、それが祈りを信じる人からすれば単に無難な生き方にしか思えないであろうことも分かっている。
でも、どちらの生き方を歩むとしても結局は自己肯定感だけが大事なのだから比較は無意味かな。他人は他人。自分は自分。
非凡なる才能の持ち主本人の言葉と、その人を褒めたたえる周囲の言葉の割合が、本作品はまあまあ許せる範囲内だったので最後まで見ることができた。前者が多くても難解になるし、後者が多いと崇拝者のエゴが目障りになる。
非凡な才能を語ろうとすればするほど、自分には凡人の表現力しかない事を認識させられるが、Wayne Shorterの場合はその差がとてつもなく大きいと感じた。
この番組の表現力に物足りなさを感じたのは事実だけど、それを書こうとして自分の文章力の低さにも気づいてしまうと言う皮肉。
ちょっと脱線すると、世界中の人に発言権が与えられたからといって、全ての人が文豪になれるわけでもないし、天才的音楽家になれるわけでもない。寧ろ彼らを発掘するのがより大変になってしまったのが今のメディアの問題じゃないかな。価値があるから有名になるのではなく、有名であることが価値であるという問題。
話を戻すと、音楽家を扱ったドキュメンタリーとしては、これはやはり入門編なのかなという結論。
音楽家を扱った番組内での音楽の素晴らしさと言う点で言えば、Seymour: Introductionの方が感動的だったが、あの映画は素人には難しいかもしれない。
音楽家でなくても音楽の素晴らしさが多分理解できるであろうと思うのは、映画アマデウスのサリエリとモーツァルトが譜面を仕上げていくシーンだが、あれはフィクションだから出来たのかも知れない。
Wayneがこの3月に旅立ってしまった時、この世界がひどくつまらない場所になってしまったと感じた。しかしそれと同時に、だからと言って諦めるわけにはいかない、彼が私に与えてくれた喜びを今度は私が私なりに人に与える努力をしなければと身の引き締まる思いがしたのは、やはり彼が私にとって特別な存在だったからだと思う。他の巨匠達がこの世を去った時には「また一人逝ってしまった」としか感じていなかったから。
しかし、私はWayne Shorterの遺志を継ぐなんて畏れ多いことは口が裂けても言えない一介のミュージシャンである。Wayneを失った世界の為なんて大それた事を言っているのではなく、もっと個人的な恩返しがしたいだけだ。
それすらも「こんな私にできるのか」という不安しかない。ただ、もし同じ思いがこの番組を生み出したのだとしたら、その点はとても共感できる。