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『テスカトリポカ』を『テスカトリポカ』たらしめているのは他でもないテスカトリポカなのだ(#読書の秋2021によせて)

読書感想投稿コンテスト「#読書の秋2021」にあたりレビューを書き直しているのだが、僕が角川書店さんから出版された『テスカトリポカ』を読み終えたのは2021年8月13日であった。

この作品を読み終えた方ならその日付に息を飲まざるを得ないだろう。グレゴリオ暦とユリウス暦の違いはあるが、アステカ文明がコンキスタドールの手で滅亡に追い込まれたのもまた8月13日であったのだ。アステカ族の終焉がもたらされた日付については本作の終盤でふれられているのだけれど、アステカ文明滅亡後500年を経た現世における偶然に、自らの身の回りに起こる現象のすべてを司る何か大いなる存在があるのだということに思い至らない術はなかった。

僕たちを見つめ、あるいは映しとる何かが確実に存在するのだ。

📚直木賞受賞作品がもつ「3国」「信奉」の系譜と『テスカトリポカ』

『テスカトリポカ』を単なる「麻薬密売人と孤児が宿命の出会いを果たす、世界・社会の裏側に切り込む問題作」という評価に閉じ込めてしまうのは拙速だ。本作は近年の直木賞受賞作の例にもれず、その物語の壮大さと並外れた存在感をもつ信奉の対象にこそ読み応えを感じるべき小説なのだから。

上記で「近年の直木賞受賞作」という言葉を出したからには挙げておきたいのだけれど、ここ最近の直木賞作品で僕がとくに面白いと感じたのは東山彰良さん『流』(第153回)、真藤順丈さん『宝島』(第160回)、川越宗一さん『熱源』(第162回)、そして今回取りあげる佐藤究さん『テスカトリポカ』(第165回)である。

これらの作品には「3国」と「信奉」という共通点がある。

『流』は、台湾・中国(大陸)・日本をめぐる物語であった。その物語のなかでミステリアスな存在感を放ち人々の畏怖と信奉の対象となっていたのが「お狐様」である。この小説を読んで以来、稲荷に赴くときは特別な畏怖をいだくようになった。

政治的な支配関係・相互関係のうえでも沖縄・米国・日本を舞台とした『宝島』はどこか『流』と雰囲気が似ていたように思う。どちらとも熱帯夜のイメージがページを燃やし尽くしてしまいそうな描写にあふれていて、読むだけで汗が出てきそうだった。そして『宝島』では沖縄のシャーマン的存在であるユタがその信奉の引き受け手となっていて、御嶽(うたき)やニライカナイの描写と重なってナラティブの厚みを増しに増していた。後に芥川賞を受賞した『彼岸花が咲く島』とは到底比べ物にならないほどの熱量で描かれる沖縄的信奉は、強く読者の印象に残ることだろう。

そしてここに挙げる中で最も寒い土地の、しかし最もよく燃えていた小説『熱源』の登場人物たちが股にかけるのは、ロシア・樺太・日本である。『宝島』の対照として日本の北端で繰り広げられるいかにも直木賞的で壮大な物語は、アイヌ民族に受け継がれてきた世界の信奉をトンコリの音に乗せて僕たちに届けてくれた。

そんな名作続きの昨今の直木賞受賞作のなかでも『テスカトリポカ』は数歩飛びぬけていると言っていい。麻薬の密売、人身売買という現代的でグローバルな問題を取り扱いながらメキシコ・インドネシア・日本の3国をダイナミックに横軸で結び付け、さらにはメキシコを舞台として500年前まで伸びゆく強靭・強固な縦軸としてのアステカ文明への信奉ーテスカトリポカへの信奉ー。

長大で揺らぎのない、それでいて時として破壊的な揺さぶりをはらむ52年周期の物語は、単なる「犯罪マフィアの抗争小説」には決してとどまりようのない壮大なスケール感で僕たちを圧倒する。ギャングスター達の駆け引き、緻密な知能戦、自らの子をあらゆるかたちで失う母たちの悲劇、そして手に汗握る命がけの戦い・・・そのどれもが及第点かそれ以上の迫力をもたらしているのはもちろんのことだけれど『テスカトリポカ』を『テスカトリポカ』たらしめているのは他でもないテスカトリポカなのだ。私たちはこの小説を読むとき、このあらゆる名をもつ神のもとにひれ伏すしかない。

📚テスカトリポカ、煙を吐く鏡

僕がこの第165回直木賞受賞作を読み「飛びぬけた作品だな」と感じたのは、そこにノーベル文学賞を受賞したガブリエル・ガルシア=マルケスの『百年の孤独』にも似た壮大な物語を見て取ったからだ。

もちろん言語的にスペイン語が登場するからという点は否めないが、バルミロのアブエラ(おばあちゃん=リベルタ)が自らのうちに秘めていたナワトル語やテスカトリポカ様を中心とする神話を語り継ぐ様は、ある意味では『百年の孤独』以上に重層的な魔力をもっていると僕は考える。

心臓(コラソン)への信奉とともに語られるアステカの神話は、物語の登場人物たちをときに怯えさせ、ときに血の結束を結ばせしめた。世界中の心臓をつなぐ血の物語は現代のグローバル犯罪というプラクティカルな小説的興奮の流れに乗って、僕たちの身体に脈々と注がれる。僕たちは佐藤究さんのエンターテインメントを受け入れながら、いつの間にか自らの身体のうちに刻まれている「何か大きなものへの畏敬」を感じることになる。

「テスカトリポカ」の題名を見ただけのときと、作品を読み終わったときと、明らかに文字や言葉の響きがもつ意味合いが変わっていることに気づく。そっと口に出すことすらも、軽々しく姿を想像することも憚られるような存在感を心の奥底に植え付けるだけの濃密なラッシュが、この作品の文章に流れ続けているのだ。

📚『テスカトリポカ』を読むために

本作を読んでいて僕が「やっといてよかった」と感じたのは、スペイン語の学習だ。もちろんスペイン語で書かれているわけではなく、日本語の小説にそのスペイン語がルビ打ちで書かれているわけなのだが、これが解るのと解らないのとでは作品の滋味深さみたいなものが全然変わってくる。

たとえばこんな一文がある。
※()の中はルビ

「おれたちが笛を吹けば、すぐに死がやってくるってことさ」
男たちは空の瓶をレジに残して出ていき、撮影係があとを追いかけた。
死の笛(シルバト・デ・ラ・ムエルテ)。その言葉の響きが、ルシアの耳にこびりついて離れなかった。

佐藤究『テスカトリポカ』(KADOKAWA、2021.2)p.11.

この「死の笛」を単なる「シルバト・デ・ラ・ムエルテ」として受け取るか、’silbato de la muerte’として受け取るかでは、物語の重厚さがまったく違う。この言葉が出た瞬間に漂う死の予感と、物語全体を覆いつくす死の予兆、近接、合体。

ナワトル語に関してはなかなか学びようがないと思うのだけれど、その響きを解釈するときでさえ、メキシコで話されているスペイン語を理解しているかどうかの差は大きいと思う。

『宝島』は、沖縄言葉との言語的複層性が僕たちをニライカナイがみえる景色へと連れて行ってくれた。『テスカトリポカ』の場合はより遠い時代の遠い国へと複雑に絡み合う物語の線が現地・同時代の言語の響きをガイドラインとして伸びていき、見事な神話の一部として僕たちの前に提示されるような感覚がある。

時代の供物のようにして僕たちの前に差し出されるこの物語を「どの程度の覚悟を持って」受け入れるか。そのことが、読者に問われているのだろう。