箱
「咲ちゃん、ごめんね」
そう言って、母はベッドで休んでいることが多くなりました。
父が出ていったあと、母の具合は、みるみるうちに悪くなりました。
顔色は青白く、やせて、病気のようでした。
日に日になにもできなくなって、ベットで具合悪そうに寝ていることがほとんどでした。
私が買ってきたお弁当屋さんのお弁当も、あまり手をつけません。
そして、母はよく泣いていました。
部屋から鼻をすする音が頻繁にきこえてきました。
そして私は、母が心配で、顔をのぞきにいくことがあったのです。
横むきに寝ながら、ぼろっ、ぼろっと、大粒の涙をおとしていました。
私に気づかずに流しつづけていました。
くぼんで、さらに大きくなった目がうるみを帯び、真っ白な顔の目のまわりをあかくして。
もともと童顔ですし、当時の私の同級生の女の子たちとあまりかわらない、子供みたいでした。
私は母に似なかったです。
顔も身長も、父に似ました。
母は私に「咲ちゃん……お母さん死んじゃいたい」ともらすことがありました。
そのたびに、私は「やだっ」と泣きついていました。
そのようなことが、何回もつづいたのです。
そんなときのことです。
「咲ちゃん。お母さんのこと好き?」
「うん」
「お母さんも咲ちゃんのこと大好き」
すごく嬉しかったです。
「死にたい」としか言わなかった母。
私が目の前にいても気づかなかった母。
そんな母が、大好きと言ってくれました。
ですがそのよろこびは、つぎの母の一言で消えてしまったのです。
「お母さんのこと殺して」
私はそれを聞いて、頭のなかがフリーズしてしまいました。
なにも考えることができませんでした。
それは、生まれて初めて経験したことだったので、よく覚えています。
ですが、逆にそのあとのことは覚えていません。
気がついたら翌朝でした。
私はおきて、リビングの電気ヒーターをつけました。
いつものように、母の朝食を用意するためです。
朝食といっても、焼いてもいない食パンにイチゴシャムをぬったものと牛乳です。
小学3年生でも、もっとちゃんとした朝食をつくれる子もいると思います。
しかし、私はそうではありませんでした。
母が食べないと思っていても、私はもっていきました。
ですが、部屋に入り布団の上から母をゆすっても、おきてくれませんでした。
母の寝ている顔を覗きました。
すごくきれいだったことを、覚えています。
私は、いたずら心がわいてきました。
私の冷たい手を母の顔にあてて、起こすことにしたのです。
母のほほに手のひらをくっつけました。
つぎの瞬間、私は思わず手を引いてしまいました。
私の冷えきった手より、母の顔のほうが冷たかったのです。
「お母さんっ」
私は、母に声をかけました。
何度よんでも、ゆすっても、目を覚ましません。
私は焦って、訳がわからなくなりました。
なんとか母を起きあがらせようとしたのです。
母の体は作り物のように、かたかったです。
時間をかけて、上半身をやっとおこしました。
ベッドの頭側の壁に、背をもたれさせるように座らせることができたのです。
そんなことをしても、母が目を覚ますことはありません。
母が死んでしまった。
母が亡くなったのに私は、泣きませんでした。
悲しくなかった訳ではありません。
母に「死にたい」といわれたときに、母が死んでしまうことを想像しました。
想像するだけで、大きな悲しみにおそわれていました。
ですが、いざ母が死んでしまったら、何か別の気持ちでフタをされてしまったようで……
悲しい気持ちが、おもてに出てこれなくなってしまっているような感じでした。
フタをしてたのは、気持ちというより、気分でした。
妙なものでした。
いま思うと、躁状態だったのだと思います。
そして私は、何をすればいいのか、わかりませんでした。
私は、母の好きな花をもってきました。
鉢植えごと。
そしてベッドのよこの、引き出しのついた背の低い棚のうえにおいたのです。
なぜそうしたのか、自分でもわかりません。
つぎつぎと鉢植えをもってきて、ベッドの周りにおいたのです。
母の好きな服を、クローゼットから出しました。
それを母の膝にかけたり、母が好きそうな、ものをベッドのうえにならべました。
私は、母と母のまわりを飾りたてていくことに、没頭したのです。
そんなことをしていたら、いつのまにか日が傾いていました。
暗くて、部屋のなかが見えづらくなっていたのです。
なので、母の部屋の電気をつけようと思いました。
私はそこで、ふと、正気にかえったのです。
部屋は静まりかえっていました。
置時計の秒針をきざむ音が、いつもよりひびきます。
「咲ちゃん」
母の声でした。
暗がりのなかから、母が私を呼んだのです。
「……」
私はおどろいて、返事ができませんでした。
「ありがとう」
母は私に、お礼をいいました。
「うん……」
私はそう、ちいさく、返しました。
気持ちが落ちついて、すごく安心しました。
私は電気をつけることなく、自分の部屋へもどりました。
そして、そのまま気絶するように眠ったのです。
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