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人生は続く。創作は続く。宮﨑駿の自伝的ファンタジー『君たちはどう生きるか』に寄せて。

【『君たちはどう生きるか』/宮﨑駿監督】

この映画を観て、しっかり言葉にして書き記しておかなければいけないと思ったことが大きく2つある。

まず1つは、「なぜ宮﨑監督は、引退宣言を撤回してまで、この映画を作らなければならなかったのか?」という問いに対する答えについて。

2013年に公開された『風立ちぬ』以来10年ぶりの新作となった今作は、事前の宣伝が一切なされず、また、あらすじや登場人物さえ明かされないまま公開日を迎えたため、実際に作品を観るまではその答えが分からなかった。ただ、今は深く確信していることがある。

遡ると、宮﨑監督は『風立ちぬ』公開後の2013年9月、長編アニメーション制作から引退することを表明していた。その理由として体力と気力の衰えを挙げた上で、彼は引退会見の場で、「とにかく辿り着けるところまでは辿り着いたというふうに、いつでも思っていましたから」「僕の長編アニメーションの時代は、はっきり終わったんだって」「もし自分が『やりたい』と思っても、それは年寄りの世迷言であるっていうふうに片付けようと決めています」と語っていた。

しかし宮﨑監督は、 2016年に引退宣言を撤回する。2016年11月に放送されたドキュメンタリー番組『NHKスペシャル 終わらない人 宮﨑駿』では、彼は、健康上の理由で制作が途中でストップすることも覚悟した上で、「何もやってないで死ぬより、やっている最中に死んだほうがまだましだね」「『死んではならない』と思いながら死ぬほうが」と語っていた。そして、鈴木敏夫プロデューサーに、「やるなら正攻法でやるしかないですよ」「全部手書きでやるって覚悟で」「決断です」と宣言した。それは、当時、著しい発達を遂げ始めていたAIを駆使した自動生成技術に対する反骨の想いの表れでもあったのかもしれない。

アニメーション作家としての深い業に突き動かされるようにして、2016年に新作の企画をスタートさせた宮﨑監督と鈴木プロデューサー。2017年8月から制作が本格化して、同年10月には公開対談の場で、宮﨑監督が突然、新作のタイトルは、『君たちはどう生きるか』であることを明かした。そのタイトルは、吉野源三郎が1937年に発表した児童向け小説のタイトルから拝借したもので、宮﨑監督は、小学生の時に教科書に掲載されていたその小説の冒頭部分を読み深い感銘を受けた過去を持つ。映画のタイトルは明かされたが、しかしその後も、吉野源三郎の小説とは全く異なるストーリーが展開されるという情報と青サギのポスター以外は、作品に関する詳細は公開日に至るまで徹底的に伏せられたままであった。

「もうリタイアを宣言した人間が作るんだから、『ああ、作らざるをえなかったんですね』っていう内容を作らなきゃダメだよ」

上述した2016年のドキュメンタリー番組において、宮﨑監督はそう語っていた。そして、2023年夏、ついに公開された今作を観て、僕は、その言葉の意味を豊かな実感を通してはっきりと感じ取ることができた。

振り返れば、宮﨑監督は、そのキャリアのほとんどの時間をファンタジー作品を創り出すことに捧げてきた。しかし、前作『風立ちぬ』は、初めて大人の人間の男性を主人公にした史実に基づく物語だった。舞台は、1920〜1930年代の日本。堀越二郎、堀辰雄という2人の実在の人物の人生と向き合いながら、混沌とした現実を「生きねば。」ならなかった理由をかつてないほどにリアルなタッチで描き出した。宮﨑監督は、『風立ちぬ』公開タイミングのインタビューで同作についてこのように語っている。

「今度の映画をやる前から、題材を決める前から、今までの映画の作り方ではダメだなと、そう思いました。時代がもう動き始めている。リーマン・ショックの前だったんですけど、ファンタジーという形で自分たちが作ってきたものを、これからもそのまんま作ることは不可能だと。まがいものなら作れるかもしれないけど、そうじゃないものを作ろうとすると、仕切り直しをしないと、ファンタジーは無理だ。いや、作れない。」

「Cut」2013年9月号

例えば、彼はかつて『風の谷のナウシカ』で腐海を、『もののけ姫』でタタラ場を描き、それらは全て、ファンタジーというフィルターを通してこそ克明に描くことができる現実の在り方そのものだった。しかし、リーマン・ショックや東日本大震災、福島第一原発事故などを経て、現実がファンタジーに追いつき、ついに追い抜いた。そうした時代において、ハードにしてシビアな現実に拮抗し得る作品を作るのであれば、それは、目の前の困難な現実をどう生きるのかというリアルを提示する作品しかない。そうして作られたのが、前作『風立ちぬ』だった。

しかし、これは結果論に過ぎないが、宮﨑監督は、『風立ちぬ』をもってして自らのキャリアを終えることはできなかった。やはりその理由は、宮﨑駿は生粋のファンタジー作家だから、なのだと思う。言い換えれば、ファンタジー作品を作らずして自身のキャリアを終えられようもなかった、ということなのだろう。そしてそれこそが、「なぜ宮﨑監督は、引退宣言を撤回してまで、この映画を作らなければならなかったのか?」という問いに対する答えなのだと僕は受け止めた。

前置きが非常に長くなったが、最新作『君たちはどう生きるか』を観て、僕は、次第に今作が王道のファンタジー作品であることに気付き、その壮大にして深淵な世界にどんどん惹き込まれていった。そして、宮﨑作品だからこその気迫と躍動感、全編から溢れ出る生命力に何度も何度も圧倒された。台詞によってではなく、画によって物語を推進していく。作り手が想像したままに跳躍して、そして時としてその想像すら超えて飛翔していく。それこそがアニメーションの根源的な力であり、これまで私たちが宮﨑作品を通して何度も味わってきた至高のカタルシス、その最新版を、映画館で体感できたことが何よりも嬉しかった。

僕が特に心を動かされたのが、それぞれのキャラクターが文字通り空を飛ぶシーンの数々だった。それらはまさに、動くことを基本原理とするアニメーションにおける真髄そのものであり、そして言うまでもなく、これまで宮﨑監督が作ってきたファンタジー作品の最重要な要素でもある。トトロも、キキも、千尋とハクも、高らかに、たおやかに、そしてドラマチックに空を飛んでいた。また、リアリスティックな作風の『風立ちぬ』においても、戦闘機が空を飛ぶシーンは、観客の高揚感を否応もなく高めるものだった。

空を飛ぶシーンには、問答無用のファンタジー性が宿る。それらが絶え間なく描かれる今作は、論理の一貫性、そしてもはや物語性からすらも脱却した、極めてピュアな感動と興奮をもたらしてくれるものだった。僕は、この映画の楽しみ方を理解し始めた中盤以降、ずっと未知の旅に繰り出すような体験に没入し、そしてラスト、青サギが眞人とヒミを連れて飛ぶシーンでは気付いたら涙を溢していた。本当に、何ものにも代えがい最高の映画体験だった。


冒頭で、「しっかり言葉にして書き記しておかなければいけないと思ったことが大きく2つある。」と述べたが、もう1つ書き記しておきたいことは、この映画を観て僕の中に芽生えた極めて個人的な想いである。

僕は、宮﨑駿の自伝的ファンタジーと銘打たれた今作を観て、創作に人生を捧げ続けてきた宮﨑監督から「僕はこう生きた」と言われているように思えてならなかった。宮﨑監督は、情熱を燃やし、魂を削りながら、今作を含めて計13本のアニメ作品を監督として世に生み出してきた。そしてそれぞれの作品を通して、その時代ごとに発するべき切実なメッセージを鋭く世に投げかけながら、生きることの意味を懸命に伝え、一人ひとりの生を力強く祝福し続けてきた。その揺るがぬ生き様を、今作を通して、彼自身から改めて示されたような気がした。

今作のクライマックスにおいて、大おじは眞人に「お前の手で争いのない世を創れ」と伝える。その言葉は様々な形で解釈できるものであるが、僕は、宮﨑監督から送られた次世代を担う人々へのメッセージと受け取った。「僕はこう生きた」と伝える渾身の自伝的ファンタジー、その結びを担うのは、今作のタイトル『君たちはどう生きるか』という問いだ。つまり、次はこの映画を観た観客一人ひとりが、自らの人生を通してその問いに対する答えを示す番である、ということなのだと思う。

人によっては、大袈裟なことのように感じるかもしれない。ただ少なくとも僕は、今作にはそうした切実なメッセージが宿っていると思ったし、そして、宮﨑監督の問いに対していつだって真正面から向き合える自分自身でありたいと感じた。僕だけではなく、特に(広義の)ものづくりや創作に携わる人の中には、今作における宮﨑監督のメッセージと問いに触れて、奮い立たされるような思いを抱いた人は多いはず。また、もちろんそうでない人の中にも、自分が価値あると信じること、正しいと信じることを、長い人生を通して積み重ね続けたいと感じた人はきっと多いはずだ。

僕自身、今作を観た後ずっと、今までの宮﨑作品では味わったことのないような深く重い余韻を感じ続けていた。言うまでもなく、それは彼のアニメーション作家としてのキャリアの深みと重みそのものである。これから先の人生を生きる上での強烈な指針となるような、唯一無二の映画体験だったと改めて思う。


9月7日、トロント映画祭の幕開けを飾る作品として、日本以外の国で初めて今作(英題『The Boy and The Heron』)が上映された。上映前のレッドカーペットで行われたインタビューで、オペレーティングオフィサーの西岡純一は、「これで引退と言われていますが、なんとかもう1本作ってくれるように説得できる人はいませんか?」という質問に対して、次のように答えた。

「世間の人は、そういう噂(引退)もしていますが、本人は、全然そう思っていなくて、今もう新しい次のアニメーションの構想を考えています。だから今も毎日会社に来て、次のアニメーションをどうしようか、と言っています。なので今回は引退宣言はしません」

「rockin'on.com」/トロント映画祭レポート1

人生が続く限り、創作は続いていく。宮﨑監督は、これからも新しいアニメーション作品を通して、そしてその生き様を通して、私たちに『君たちはどう生きるか』と問いかけ続けていくのだろう。次に生まれる作品が、いったいどのようなファンタジー作品になるのか(もしくは、『風立ちぬ』のようなリアリスティックな作品になるのか)は今はまだ全く想像もできないが、いずれにせよ、宮﨑監督と同じ時代を生きていること、生きてゆくことに、僕はあまりにも深く輝かしい意義を感じている。



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