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ぼくが学校に行けなかったとき、現状を乗り越える大切な気づきをもらった本
小学校5年の時に、ちょっとした行き違いでクラスからはじき出され、担任からも強く当たられるのが意味不明で、登校と不登校をくり返しました。
その後、なぜか公立高校の先生になり、30年間、不登校の子や体調不良の子たちを、教室に復帰させ続けてきました。
最近ですが、約束を破ったとか、だまされたとか、問題が解決したのに生徒が登校しないとか、愚痴っている担任の先生がいました。ここにも大事な気づきがあるので、近いうちに書こうと思います。
当時は、修羅場という言葉を知りませんでしたが、いまも学校は、ある意味で修羅場に違いありません。
この状況を乗り越えるには、そのままの自分では不可能でした。
ぼくが、そのままの自分ではなくなった理由の一つとして、ある本に偶然巡り合ったことを、取り上げたいです。
それまでは図書室に通うのが日課で、怪人二十面相シリーズなどを借り続けていましたが、そこに行く気力もなくなり、家にあった本も読み終えてしまった頃でした。
父親が、近所にあった鉄工所の方から、文学全集をもらってきました。
私の実家は菓子屋で、天理教の布教所でもあったので、裏の畑の隅に本格的なブランコを作ってもらったり、月次祭(つきなみさい)という行事の後の宴会には、毎月必ず来てくれる、父親の親友とも呼べる人でした。
リヤカーいっぱいに積んできてくれた文学全集を、ぼくは家の二階に運びました。
悪童物語、レアンダー童話集、ガルガンチュワ物語・・・。
希望をもらったり、ワクワクする童話がたくさんありましたが、ホフマンの『くるみ割り人形とねずみの王様』にたどり着いたとき、その短編の入った分厚い本が、手放せなくなりました。
『くるみ割り人形とねずみの王様』に、共感した理由
この童話の中で、作者のE.T.A.ホフマンは、背が小さくて不恰好だけれど、なんでも知っていて、なんでも作ったり直したりできる、ドロッセルマイヤーおじさんとして登場します。
ぼくはそんな、ドロッセルマイヤーおじさんに、なりたい!と思いました。
「それは、なんでですか?」という質問に答えるために、あらすじを主人公のマリーを中心にしぼって抜き出してみます。
クリスマスの夜に、主人公マリーは、名付け親のドロッセルマイヤーおじさんからもらった不恰好なくるみ割り人形が、なぜか気に入ってしまいます。
→ こわれたくるみ割り人形をマリーに手渡すドロッセルマイヤーおじさん
そのくるみ割り人形は、魔法をかけられたドロッセルマイヤーおじさんの甥っ子の青年で、七つの首のねずみと戦わなくてはなりません。
マリーはくるみ割り人形に、銀のサーベルを手渡します。
くるみ割り人形は、七つの首のねずみを倒し、王冠を奪って、マリーに渡します。
マリーが目を覚ますと、小さな七つの王冠を手に持っていました。
マリーは正しいけれど、だれもマリーを理解しない
マリーはその王冠を手にして、ドロッセルマイヤーおじさんに問い正しますが、知らないフリをされるどころか、逆にバカな話だと跳ね返えされてしまいます。
マリーは、誰にも信じてもらえず、夢と現実の区別がつかなくなり、椅子から転げ落ちて気を失います。
マリーが気がついた時、本物のドロッセルマイヤー青年が現れて、部屋の中の人たちに硬いくるみを割ってあげていました。
やがて青年はマリーに話かけ、いまは砂糖菓子の国の国王になっており、マリーを迎えに来たことを告げます。
→ 真ん中の小さな男の子がドロッセルマイヤー青年(ポニーテールがある)
冷たいドロッセルマイヤーおじさんを、許せるかどうか
ラストシーンの直前のところで、夢と現実のつながりに気づいたマリーを、ドロッセルマイヤーおじさんは、突き放すという暴挙に出ます。
読者だって、黙っていられません。なんで今回は助けてくれないのか?
マリーは当然、こころの拠り所を失ってしまいます。
絶対に知っているはずなのに、冷たい仕打ちをするクソジジイ。
(きれいな言葉ではありませんが、感情を表すために使わせてください)
このクソジジイのために、マリーは誰にも打ち明けられず、誰も信じることができなくなって、自分のからの中に引きこもってしまいます。
ぼく自身も、学校ではだれも信用できなかったので、共感するところがありました。
ところが、最後の場面では、ちゃんと甥っ子のドロッセルマイヤー青年をつれてやってきて、マリーに引き合わせ、青年が真実を教えてくれます。
何度も読んでいるうちに、ドロッセルマイヤーおじさんは、作者自身のことだと気づきました。
ぼくはこの、イヤなクソジジイのことが、たまらなく好きになりました。
まったくのおとぎ話で終わる理由
童話のラストシーンは、現実の世界が幸せになるか、おとぎ話の世界で幸せになるか、のどちらかに分かれます。この童話は、後者です。
現実の世界が幸せになるのではないので、どこか、さびしさが残ります。
同じ文学全集の中に、やはり微妙なハッピーエンドの童話がありました。登場人物たちは、見た目は貧しいけれど、幸せに暮らしたことが描かれており、納得がいかないところがありました。
大人になってから分かったことですが、この作品が発表されたのは1816年で、その9年前の1807年の、作者のホフマンはナポレオン軍に追われて困窮した生活を送る中で、2歳になったばかりの娘ツェツィーリアちゃんを亡くしています。
私の娘が2歳の時には、私は札幌から函館に転勤になり、同僚からもらった三輪車がお気に入りで、立待岬まで何度も付き合わされました。
どんな夢だって、叶えてあげたい。
お菓子の国のお妃さまになる夢だって、叶えてあげたい。
このラストシーンは、ホフマンの娘さんへのレクイエムの意味もあったのだろうと思います。
『くるみ割り人形とねずみの王様』のお話の、変なところ
ぼくはドロッセルマイヤー青年のポニーテール(三つ編みにしてある)のことがよく分からず、何度も読み返しました。
ドロッセルマイヤー青年のくるみの割り方には、特徴があります。
硬いくるみを歯の間にはさみ、後頭部の「ポニーテール(三つ編み状)」を引くと、くるみが割れます。
ドロッセルマイヤー青年は、物語のなかで、下アゴに力がはいるように、改造が加えられています。
くるみ割り人形に変えられてしまう前の、生身の人間なのに。
「下アゴを強く締めつけられられるように下アゴとつなげる、頑丈で無骨な編み毛を編んであげなくてはならない」
その改造が加えられた結果、ドロッセルマイヤー青年は後頭部のポニーテールを引くと下アゴに力が入り、どんな硬いクルミでも割れるようになりました。
しかしそれは、おとぎ話の中の出来ごとなのに、現実の場面で登場するドロッセルマイヤー青年も、くるみを割る時に、ポニーテールを引きます。
そこがどうなっているのか分からず、この分厚い本を、かなり長い間、持ち歩きました。
バス遠足の時、担任にからかわれたのも、ぼくがリュックの中に、辞書ほどもある分厚い本を2冊も持ち歩いていたからです。
ぼくはポニーテールと下アゴの関係を、図に書き表しました。
その図を見たぼくの当時4歳の妹が、「お兄ちゃんの顔みたい」と笑ったことだけは覚えているので、自分の顔をもとにして、部品を付け加えたに違いありません。
その図はずいぶん長く大事にとってあったのですが、何度も引っ越しをしているので、どこかに行ってしまいました。
もしもこの童話を読む機会があったら、子どもさんに、問いかけてみてください。
ドロッセルマイヤー青年は、どうしてポニーテールなの?
その答えは、みなさんお気づきのことと思います。
いまから半世紀近く前の、インターネットのなかった時代、ひとりの少年が、この本を毎日抱えて、学校に通いました。
「今日は誰かに質問しよう。」
だれも答えてはくれなかったのか、質問自体ができなかったのかわかりません。
ドロッセルマイヤーおじさんがマリーを突き放したとき、マリーを助けられない背景がありました。夢と現実の間を行き来する作品だけれど、夢が現実になるのは、もう少し先だったからです。
マリーが先に気づいちゃったんですね。
この時間的なズレが、マリーや読者にとってのストレスになり、ものごとを俯瞰(ふかん)する大切さに気づかせてくれます。
同じように、ドロッセルマイヤー青年が、おさげ髪なのも、なにか背景があるのに違いないと思いました。
疑問は残ったまま、おかしな物理の先生になりました
疑問は解けませんでしたが、学校には行けるようになりました。
その後、なぜか高校の物理の先生になり、不登校の子や、学校に馴染めない子に引き寄せられては、その子たちが笑顔になるまで、質問をつづけて、励ましをつづける、変わった先生になりました。
子どもたちは自分から、不登校だった自分から、脱皮(だっぴ)します。
この脱皮のメカニズムは、経験から見つけました。
発達障害、パニック障害、小児ウツがあった子、起立性調節障害、いろんなケースがありましたが、教室に戻ると、意外なくらい元気に戻ります。
どうしてそれが可能なのか、これから解説していきます。
頭の中のどんぶりに、ごちゃ混ぜに入った状態なので、少しずつほどいて、文章化していこうと思います。
ご相談があれば、こちらでお伺いします。
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