はる

がらんどうの時間が服を着て歩く
調味料の時間が透明なセロファンを着て
郵便ポストの目の前を横切っていく
穴があったら入りたい
恥ずかしさをそう感じたとき
穴を探してウサギが通っていった

牧場主が大きな口でなんども笑いながら通っていった
にこやかであるのはいいことだ
牛乳がいっぱい波打っていることが
表情に出ている
春が来て
桜の季節になったことが
表情に出て光っている
なんどもいったけれど
季節が表情に出ているとは
とてもいいことだ
若葉が表情に出て
風でゆらいでいる
雪解けの光る水が流れていく

毎日の光が道を通っていく
メエメエいっている羊の群れ
園児たちも通っていく
メエメエという声ではないが
メエメエいっている
春が来たのだ
春の声がメエメエいっている

新型コロナが落ち着いてきて
春がにぎやかに通ってひと月たった頃

酪農をやめる人が増えている
という新聞記事を目にすることになった
ロシアのウクライナ侵攻に起因する
飼料代の高騰や
新型コロナでの外食控えからくる
牛乳のだぶつきが原因だという

何も知らなかった
散乱する春の光ばかりに気を取られていた
牧場主は笑顔じゃなかったのだろうといまはじめて気づく

そういえば
わが家では
急に下の階が静かになった

下の階では
妻と重度知的障害の息子が夕食で闘っていた
じぶんではどうにもならない性の欲動によって
壊したい
壊すのはいけない
壊せばじぶんが困ることはわかっているが
でも大切だからこそ壊さざるをえないと
悲鳴をあげながら
壊している
食べ物を投げる
皿を投げる
本を投げる
タブレットを投げる
食欲が悪い
と息子のこころが叫ぶ
知性が悪い
と息子のこころが叫ぶ
おまわりさんにつかまってくる
と息子が叫ぶ

妻は制止できずに
すでにもっとどんどん壊せとあおっている
いまは、おさまってパソコンの前に座ったのだろうか
それとも・・・

二階にいるものに
おまえも部外者ではないと
青く芽吹いた猜疑心を送ってくる

街を歩く
牧場主には牧場主の闘いがある

閉ざされている
わが家の各自には自分や自分以外との闘いがある

窓から漏れる叫び声で
外からは熾烈な争いに見えるが
しかしこれは争いではない
全員が存分に自分自身と闘っている

平穏な時間の本流のなかに
誤って殺すこともありうる平和な日常が
強い圧力で春を包み込んでいる

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