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What I've been doing ...

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イチオシです。写真との出会いやカメラマンとしての人生を振り返り中です^^
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#スポーツ

ep.33 諦めない想い。

100年に一度のパンデミックに襲われ、先が見通せない中で、どんなに風当たりが激しくなっても開催を信じて、諦めることなくトレーニングに励んできたアスリートには畏怖の念というか感謝しかありません。 スポーツが人の心を動かすとき、その根っこには必ず「諦めない想い」があります。オリンピックが世界最大のスポーツの祭典になり得たのは、商業主義が成功したからではなく、人種や宗教、思想を問わない様々な諦めない想いが世界中から集まるからです。 こんな状況だからこそ、彼らが見せてくれるパフォ

ep.32 思いやり。

2011年4月、僕はモスクワ郊外のメガスポルトにいた。その年、東京で予定されていた世界選手権が東日本大震災の影響でキャンセルとなり、急遽、モスクワで開催されることになったからだ。 この大会で女子シングルを制した安藤美姫が掲げた日の丸を見て、僕は思わずシャッターを押した。それは彼女の思いと僕のそれが重なって、きっと日本中の人々の気持ちと重なっていたからだ。 「がんばれ」じゃなくて「がんばろう」。日本語だからこそ表現できる日本人ならではの思いやり。 あの頃、日本は国中が沈ん

ep.31 アオハルだよ。

僕は10代のときにゾーンを3回経験したことがある。そのうち一回はバスケをする友だちがドライブを決めようとしているときだった。 高校生のときクラス対抗の球技大会があったのだけれど、そこでクラスメイトのテツマが大活躍をした。 バスケ部の彼は普段はボーッとしていて自己主張をするタイプではないけれど、試合になると人が変わったように躍動した。俊敏性に優れていて、緩急自在のドリブルと鋭いパスでガンガン攻めるタイプだった。 テツマがボールを持つと会場が湧いた。次はどんなプレーを見せて

ep.30 死闘。

柔道の東京五輪代表で男女合わせて14階級のうち、唯一決まっていなかった男子66キロ級の代表決定戦が講道館でおこなわれた。 阿部一二三と丸山城志郎。「はじめ!」「待て!」審判員の鋭い声。畳が擦れる音。時折発せられる気合。白の道着に徐々に増える血の跡。 令和の巌流島と謳われ24分にも及んだ戦いは、見ているだけでも奥歯を噛み締めてしまう緊張感に包まれ、一瞬も気を抜けないまさに死闘だった。 お互いに指導を2回づつ受け、いつもなら3回目の指導で終わってもおかしくない展開だったけれ

ep.29 神の子。

僕が幼い頃、近所でサッカーボールを蹴っていたら「お、マラドーナ、頑張れよ〜」と見ず知らずのオヤジに言われたことがある。 「まらどーな? なにそれ?」 僕にとってのサッカーとはキャプテン翼であり、スター選手は大空翼や日向小次郎で、アルゼンチンといえばファン・ディアスのことだった。まだ「神の手」も「5人抜き」の存在すら知らなかった頃の話だ。 僕が彼をハッキリと認識したのは1994年のW杯アメリカ大会だった。初戦のギリシャ戦で目の醒めるようなミドルシュートを突き刺したあと、テ

ep.28 はじめの一歩。

僕には今でも心に留めている言葉がある。 2001年のちょうど今頃。新卒から勤め始めたバイク雑誌で編集者としての限界を感じていた僕はカメラマンという職業に興味を持ち始めていた。 ある日、新車インプレッションを任された僕が依頼するカメラマンに頭を悩ませていると編集長が「スポーツカメラマンに興味があるなら、この人に頼んでみれば?」と紹介してくれたフォトグラファーがいた。 僕が勤めていたのはいわゆるストリートバイクを紹介する雑誌だったから、お付き合いのあったカメラマンさんはカス

ep.27 背中を押す男。

スポーツカメラマンを志していた頃、僕がやっていたのは雑誌に掲載された写真のクレジットのチェックだ。  「お、凄い」と思う写真を見つけてはクレジットの名前を確認する。そして、現場でお目当てのカメラマンさんと一緒になることがあれば、さり気なく隣に陣取ってシャッターの音を聞いた。こうすることで色々なことを学ぶことができた。  ある日、いつも目を通していた雑誌で見慣れない名前を見つけた。  「龍フェルケル」  被写体はセルティックで活躍する中村俊輔選手だった。誌面でみるように

ep.26 伝える男。

僕にはK兄さんとは別にもうひとり兄のように慕っている人がいる。ニノさんだ。出会いは2007年の埼玉スタジアムで、たまたま現場が同じだったS原さんに紹介してもらったのだ。 ニノさんは某大手スポーツ新聞社を退社して、某スポーツ総合誌の編集者になったばかりだった。付き合いが深くなったのはライターとして独立してからだ。ご近所さんということもありよく飲み歩いた。 2012年の夏。ニノさんからメッセージが届いた。 「群馬いかない?」 2011年8月に急逝した松田直樹さんの一回忌に

ep.25 思い出の一枚。

2007年の年明けは晴れ晴れしいものではなかった。 独立してちょうど1年、収入の柱をすべて失っていたのだから当たり前の話だった。それでもわずかながら希望はあった。それはスポーツ総合誌の老舗Nの編集者から声をかけてもらっていたからだ。 その編集者はNに異動してきてきたばかりで、巻頭の連載企画を担当することになったと言う。旬なネタをコピーと一枚の写真でみせる企画だった。 いくつか提案はさせてもらったけれどなかなか採用にはならなかった。写真の美しさやインパクトを優先していて、

ep.24 想定外。

2006年1月に独立してあと少しで1年という頃。僕は台湾で震えていた。 そもそも独立を考えたのは、ドイツワールドカップがあったからだ。大きなイベントのあとは景気が冷え込む。だからこそ、なるべく助走をつけて祭りに挑もうとタイミングを図っていた。 そのためには柱が必要だ。 まずはスポーツ総合誌A。ここでは主にサッカーやインタビュー取材、連載まで任せてもらえるようになっていた。 そして、同じくスポーツ総合誌B。僕の可能性を最初に拾い上げてくれた雑誌だ。こちらではサッカー以外

ep.23 「好き」の行方。

僕が初めてセパタクローを取材したのは2004年だった。K兄さんに紹介されたのが最初だ。それ以来、何度か媒体に売り込んだことがあったけれど、なかなか取り合ってもらえなかった。 2006年はドーハでアジア大会が予定されていた。セパに携わる人間にとっては4年に1度の夢舞台だ。そして、この年はドイツワールドカップの年でもあった。僕にとってカメラマンとして迎える初の夢舞台だった。 そんな中、セパタクロー日本代表のエース寺本進が春先から夏にかけてタイのプロリーグに挑戦するという情報が

ep.22 リジェクト。

なんとか無事にパリを飛び立った僕が向かったのはバルセロナだった。お目当てだったカンプ・ノウでの取材に胸を膨らませていたのは言うまでもない。しかし、そのあと僕を待ち受けていたのは厳しい現実だった。 まずカンプ・ノウでの取材は申請が通っておらず受付で断られてしまった。歌を唄いながらスタジアムへ向かう人並みに逆らいながら、トボトボと帰路に着いたときの虚しさは今でも忘れられない。 ここで他の取材申請の可否が心配になった。取材経験が豊富な先輩によると何かしら返事があるはずだと言う。

ep.21 西へ。

2006年1月に独立した僕の目標のひとつはヨーロッパにいくことだった。 フリーになって最初の出張がウィーン経由のエジプトだったけれど、それからほどなくして、ついに本格的な欧州取材のチャンスがやってきた。ジーコジャパンがドルトムントでボスニアと親善試合をすることになったのだ。 日本代表の試合だけでは採算は合わない。そこで僕はどうせ赤字になるのならと、経験を積む選択をした。この試合を皮切りに欲張り取材日程を組むことにしたのだ。 予定は以下の通り。 2/28 日本対ボスニア

ep.20 篤い人。

僕が撮った彼のもっとも古い写真がこちら。2006年の秋にインドでおこなわれた大会での一コマ。彼らはカナダで予定されていたU20ワールドカップをかけた戦いにまさにこれから挑もうとしていた。 2005年から本格的にスポーツカメラマンとして活動をはじめた僕にとって、彼らと彼らの一つ上の世代、いわゆる北京五輪世代はアンダーから記録していた最初の世代だ。 僕にとって初の世界の舞台のとなったU20ワールドカップは今でも最高の思い出になっている。それは会場だったカナダのビクトリアという