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ep.23 「好き」の行方。

僕が初めてセパタクローを取材したのは2004年だった。K兄さんに紹介されたのが最初だ。それ以来、何度か媒体に売り込んだことがあったけれど、なかなか取り合ってもらえなかった。

2006年はドーハでアジア大会が予定されていた。セパに携わる人間にとっては4年に1度の夢舞台だ。そして、この年はドイツワールドカップの年でもあった。僕にとってカメラマンとして迎える初の夢舞台だった。

そんな中、セパタクロー日本代表のエース寺本進が春先から夏にかけてタイのプロリーグに挑戦するという情報が入ってきた。そして、ドイツまでの旅程を調べていたら、タイ国際航空が最安値であることに気がついた。

ここで僕のやる気スイッチが入った。

ドイツに入る前にバンコクでストップオーバーして寺本さんを取材。K兄さんが文章を書き、僕が写真を撮る。ノンフィクション作品としてパッケージで売り込む。いくら話しても響かない編集者であれば、響くまで叩き続けることにしたのだ。

最初はドイツ行きの打ち合わせをしていたK兄さんからすると、いきなり暴走を始めた僕の計画にしっかりと自分が組み込まれていることに驚いたかも知れない。

バンコクから東北に150キロ。ミニバスで3時間。古都ロップリーに寺本さんはいた。僕が彼の話をじっくり聞いたのはこのときが初めてだった。

1994年、広島アジア大会きっかけで本格的な強化が始まった日本のセパタクローだったけれど、当時は一部の有力選手とそれ以外の差が大きかったように思う。

そんな状況だから、日本代表選手と言えども競技だけに専念はできない。練習のマネジメントに始まり、広報や普及活動、そして、大会運営とあらゆることに関わらねばならなかった。

タイのプロリーグに挑戦している寺本さんのサラリーも十分なものではなかった。決して恵まれた環境とは言えないけれど、彼はセパタクローに打ち込んでいた。

その理由はシンプルだ。セパタクローが「好き」なのだ。

そこに行き着くまでにはたくさんの葛藤があったはずだ。不安で眠れない夜もあったかも知れない。それでも仲間と共にコートに立つと自分の気持ちを実感したはずだ。何度も逡巡することで、余計なものが削ぎ落とされていき、最後に残ったのは「好き」というシンプルな思いになったのだと思う。

2006年の1月、僕はドイツワールドカップのために独立した。その夢舞台を直前に控えたタイミングで聞いた彼の話は、今後も「好き」な写真を撮り続けたいと思っていた僕にとって響く内容だった。

あれから14年が経ち、細々とではあるけれど、僕は今も「好き」な写真を撮っている。寺本さんは引退しているけれど、彼の意思を受け継いだ選手たちが、今も自分たちの「好き」を叶えるためにボールを蹴っている。そして、その活動は14年前に比べたら確実に進歩している。

彼らの「好き」がどこまで跳ぶのか。この先も記録を続けていきたい。

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