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「万引き家族」

今更ながら、「万引き家族」を見た。

「第96回アカデミー賞」で「ゴジラー1.0」が視覚効果賞に選ばれたことを受け、安藤サクラ様の演技が見たくなったためである。

良かったなあ。 サクラ様すばらしかったし、リリー様も希林様もよかった。本当に見てよかった。やはり是枝監督だな。

さて、あらすじに言及する余白はないが、

よその子供を、虐待されてかわいそうだから連れてきて一緒に生活する。バレることなく、お店がつぶれなければ万引きを続ける。家族が死んでもお金がないから庭に埋める。

その場しのぎで短絡的で刹那的だけれども、一瞬一瞬は、「家族」にとっての合理的な判断なのだ。それが心地よいから「連帯」し、「家族」のように見えている、というのが「万引き家族」である。
それは、本当の家族よりも濃密で、本当の仕事よりも根源的で、本当の愛の形よりも官能的ですらある。

その「連帯」を、「愛」と表現する以外に何と言えばいいのだろう。

万引きを知っていて見逃していた駄菓子屋のおじさん。生きるために妹に万引きを教える兄。家で勉強できないヤツが学校へ行くんだと教える親。

この人たちのどこに「悪」が存在するというのだろう。

「だってしょうがないじゃないか。それしかできないんだから」
「万引き家族」には選択肢がない。

まるで、「人間は、お金じゃねえよ愛なんだよ」と、えぐられるようではないか?
そう、すでに日本人は「愛」だけでは動けない。私たちは一体、いつから拝金主義だったのだろう?

勉強すれば仕事の「選択肢」が増える。所得があれば結婚の「選択肢」が増える。親が子供に「選択肢」を与える。老後に友人がいた方が「選択肢」が増える。
私たちの人生は、そんなことばかり考えているのではないか?

「選択肢」を買うには「お金」が必要だ。

しかし、同時にいくつも経験できるはずがないのに、「選択肢」があることが本当に正しいことなのだろうか。選ぶ「お金」がないことは本当に不幸なのだろうか。

そんな社会と、距離を置いて生きていくことは許されないのか?

だからといって、「万引き家族」として生きることは孤立であり、「自閉」と同じだ。
引きこもっていてはいけない、そんな社会でも、繋がっていないといけない。「しょうがない」ことだと分かっていても、自分が強くなる以外にない。

細かく分断して、より高く売る、それが人間が発明した資本主義社会のルールだからだ。

したがって、現代社会は「万引き家族」を否定せざるを得ない。
かわいそうな人がいることは分かるけど、頑張った人は報われるべきだし、フリーライダーは許されないはずだ。

貨幣経済は、所得が社会的価値と人間的価値のすべてとなりつつある。

やがて、治は「父ちゃん」になることを諦め、「おじさん」に戻ることを選択し、翔太は「父ちゃん」を諦め、社会と繋がることを選択するのだった。

ルールに従って、「家族」は分断した。

そうやって、社会は作られていく。
未来は、子供が選択してゆく。



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