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【#映画感想文】映画『水上のフライト』に見る主人公の描き方

今の自分に周りを見渡すだけの余裕があるのだろうか。見渡す余裕がない時ほど、人は他者の助けを必要としている。だが余裕がないことは格好が悪いことだから、人は仮面を被り、余裕のあるふりをする。そのうち自分の演技に自分自身も騙されて、助けなんていらないと思い込む。自分は助けが必要だったのだと気づいた時は大抵の場合、孤立してしまった時だ。その意味で中条あやみ演じる遥は幸せ者である。1人で生きていくことはできないと気づいた時、周りに大勢の人がいて、彼女を支えてくれたのだから。であるからこそ、彼女は報いなければならない。カヌーで結果を出すことによってではない。彼女自身が明るく、素直になるということによってでもない。彼女が人と真正面から向き合う過程の中で報いなければならないのだ。

『水上のフライト』の主人公遥の心情に重きをおいたログラインはさしずめ以下のようなものだろう。

 1人でなんでもできると思っていた実力主義の少女が、事故により自分の足で歩くことが叶わなくなった。少女は走高跳を諦めざるを得なくなったが、知り合いのつてで始めたカヌーで出会った仲間のおかげで、仲間と支え合うことの大切さに気づく。少女はパラカヌーに挑戦することを決め、胸のしこりが取れたかのごとく明るくなる

 私は「気づき」のプロセスとしこりが取れるスピードに違和感を覚えてしまうのだ。

遥がパラカヌーの道へと進むには、走高跳との訣別が必要不可欠である。劇中で遥が言っていた通り、足がダメになったから次の目標へ飛びつくなんてことはできない。そう簡単には切り替えることはできない。カヌーへ舵を切るということは、走高跳を諦めるということに等しい。遥はカヌーの夏合宿で自分の感情を言葉で表現することによって走高跳と訣別した。小澤征悦演じる宮本浩がパラカヌーに誘った時は、感情を爆発させるだけで彼女自身も自分の感情をしっかりと把握できていなかった。そう考えると確かに前に進むための大きな一歩ではある。だがそれは初めの一歩に過ぎない。走高跳の未練と訣別するには、選考会の練習シークェンスに挿入されている走高跳部員との対峙が不可欠である。

走高跳と訣別した後の遥は驚くほど明るくなる。それはカヌークラブの仲間たちと支え合って強くなっていく様子を示したいからだと思われる。対して、走高跳のメンバーたちはどこか冷たく表象されている。走高跳をしていた頃の彼女は孤独で、部員たちと距離がある。足が使えなくなって以降、メンバーはあからさまによそよそしくなる。だが、走高跳部員は本当に冷たい人たちなのか?彼女は走高跳をやっていた頃も1人ではなかった。孤独の仮面を被っていたに過ぎないのだ。仮面がいつの間にか本物の顔のごとくなっていただけの話である。部員たちは遥のことを応援し、コーチは遥のことを信頼していた。仲間がいたのにいたことに気づけなかった。そのことに気づくのは、カヌークラブの仲間に支えられた時ではない。走高跳の部員たちと対峙した時である。走高跳の部員たちと対峙するシーンにおいて、遥は自分の内面の葛藤を解決させた段階で彼女らと話している。「私は変わったよ。だからあなたたちも頑張って」と、事後報告ついでに彼女たちの背中を押すにとどまっている。遥と部員たちとのしこりはこんなものではないはずだ。お互いに気まずさや申し訳なさを抱えているはずだ。怪我をしたときに見捨てるような形になってしまった申し訳なさ。遥の席を横取りしたような形になってしまった気まずさ。自分のことだけしか考えきれず、支えてくれていた仲間に対して冷たくしてしまった申し訳なさ。互いに合わせる顔はない。それでも対峙しなければお互い前に進めない。このドロドロとした思いを衝突させて初めて遥は走高跳と訣別できるのではないのだろうかと思った。

パラカヌーの道へ進むと決断した時点で彼女の内面のプロットは解決している。言葉だけで解決させてしまっている。それでは選考会までの葛藤要素が物理的なもの以外ない。だから、練習しているシークェンスを音楽とともに提示するほかなくなる。遥は最初のぶっきらぼうなときから、とても魅力的なキャラクターだと思う。人一倍素直で、努力家で、人恋しいはずなのに、助けてと言えない。内面のサブプロットを畳むのが早いため、彼女の繊細な性格が十分に生かされていない。

一つ一つのセリフやキャラクターの感情は共感できるものが多かった。特に遥の「見栄」には共感する。それだけに、遥には支えられるだけの人になってほしくない。もっと真正面から人と向き合って、自分と向き合って、傷つき合う。そのさきに満面の笑みが待っているのではないかと思う。


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