おきな草

5人の子供を持ち、一人は知的障碍者、全員が不登校(ホームスクール)を経験。自宅にフリー…

おきな草

5人の子供を持ち、一人は知的障碍者、全員が不登校(ホームスクール)を経験。自宅にフリースクールを設置。それが話題になり、女性自身、毎日新聞などに記事が取り上げられる。ファイナンシャルプランナー、消費生活コンサルタント、知的障害者金融教育支援員

最近の記事

小山台幼稚園の運動会

本当に久しぶりの投稿である。スキをいただいた小山台幼稚園のことを思い出したので書いてみる。いろいろなエピソードがあるが、私はあの幼稚園の運動会も大好きだ。  とにかく当事者が楽しむ運動会だった。おばあちゃん先生が初めに挨拶をするのだが、「今日は運動会。晴れてよかったね!運動会は見せるものではなくてみんなが楽しむものだから挨拶は以上です。終わり!」という数秒たらずのあいさつで始まった。そのころ現役のNHKのアナウンサーであったおばあちゃん先生の息子さんが進行役のお手伝いをして

    • 二重籍PART2続き

       まさか大学院博士課程まで留学するとはその時は全く想像できなかった。アメリカの私立ボーディングスクールは、一般の家庭でしかも5人兄弟という環境にいる娘にとっては行くことすら奇跡であった。なので1年間だけでしかも日本の高校に籍を置いたまま休学という形をとっての留学だった。  娘が中学の時に受験したいと言い出した際、「我が家ではとても無理だから、受験だけはいいけど受かっても誉れだけだよ。」 これはこの話だけで本になるくらいだから娘にいつか執筆してほしいと思っている。娘が行った

      • 二重籍PART2

         実は違った意味で二重籍をしていたことがある。  4番目の子が中学から学校に行き始めた。上の子たちを見ていたので学校というところを凄く嫌な所だと思っていた彼女は、小学校は最初から行かなかった。私も教育委員会に手紙を出して本人の意思に任せることにしたと伝えた。中学にはいる年齢になり、もともといじめが原因で行けなくなったということではない彼女は中学入学にあたり学校というところに一度入ってみていやだったらやめる選択をした。  上の子たちの関係で私も先生には、「本人に任せてあるの

        • 二重籍

           なにやら凄いことみたいに思われるが、簡単に言うとアメリカの学校の通信教育課程にも籍を置いていたということ。日本の学校は行っていなくても籍は当然日本にある。しかし子供たちに少しでも堂々としてほしくてこの形をとった。  不登校であっても子供が出歩くことに後ろめたさを持ってほしくなかったが、ある時知らない人に、「学校は?」と聞かれ「行ってない。」私は子供たちに堂々とそう言えばよいと言っていた。「親は知ってるの?学校に行くといってここでさぼっているんじゃないの?」という意味合いの

        小山台幼稚園の運動会

          大切なのは集中力

          本当に久しぶりの投稿である。これからは時系列ではなく、私なりに大事なこととして心の片隅にあったような気がするものを取り留めもなく書いていこうと思う。なのでもしかしたら過去に同じ内容でダブっているかもしれないが許してほしい。  我が家はみな学校に行かず家にいた点でよかったと思うこともある。学校にいけなくて仕方なく家にいるからせめて楽しく過ごそうというニュアンスではなく、学校に行っていたらきっとこの能力は伸ばせなかったのではと思うことがこの「集中力」である。とても大切な能力でこ

          大切なのは集中力

          生きていれば

           学校に行くか行かないかの尺度を外して、人間という動物として生きていくことに焦点を置くようになった。毎日をいかに楽しく過ごしていくか、せめて家のなかは笑いに包まれる雰囲気にしていこうと思った。たとえると道もない歩くことさえ大変な雑草だらけのところを我が家はその雑草で遊びながらどこに行くかも決めずにみんなでワイワイ歩いている感じだ。斜め上を見れば高速道路があって車が通行していたり一般道を沢山の人たちが一列に並んで歩いていたりしている。中にはこちらを見て「ああゆう風にはならないよ

          生きていれば

          楽しく孤立

          久しぶりに投稿するにあたり、前回子供たちの様子がおかしくなってきたと書いた。学校に行かないと小学生だった子供たちは同世代の他の子供たちとの触れ合いが絶たれてしまったので何か良い方法は無いかと考えた。  都会ならばその頃もフリースクールがあるという事は知っていたが、そのころは近くには全くなかった。そこで新聞に自宅を開放してフリースクールを始めたいと投稿した。 そうしたら何人かの方から連絡をいただいた。自宅に足を運んでくださる方や相談に乗ってほしいという方などが来られ、学校に

          楽しく孤立

          山梨へ

           天文台に来ても時々は東京の本省に出張があり、小海線沿線より中央本線沿線のほうが東京に行きやすいということ,そして私もすでにどこが良いのかという選択よりも住むところで腹をくくって生きようということに決めた。山梨から野辺山に通うほうが便利ということで山梨で自宅を建てることにした。   本当は天文台が決まり官舎が満員と言われたとき、山梨県、高根町の町営住宅も考えたが、住民になって6ヶ月経たないと申し込む資格がなくという事で諦めた。現在のようにネットで検索という具合にできなかった

          村での孤立

           長女は小学一年生の時に転校という形で村に来たが、同時に長男は村の保育園(幼稚園は無い)に通うことになった。  保育園に通い始めた初日。初めてなので私が連れて行った。そしたらそこのベテラン保育士に、「ここは東京の幼稚園じゃないんだから親とは来ないでください。ひとりで来るんだよ。」会ったばかりの先生の怒った顔を見て長男は怯えた。周りはみな幼い時からの顔見知りばかりなのでさっそく孤立し始めた。「男なんだから泣くな。」私からするとショックな言葉かけばかりだった。次男も同様だった。

          村での孤立

          社会ではなく世間

           愛知県、それも豊田市のトヨタ自動車本社のそばで育った私は田舎の社会というものの恐ろしさを理解出来ていなかった。  今振り返ると私が育った地域は地方と言っても全く地域性のしがらみなどなかった。隣近所のつながりは個人間の付き合いでしかなく、それ以外は他人だった。今実家に帰るとマンションが立ち並び発展した都会となっているが、私が育った頃はトヨタ自動車が発展していった時代で土地を切り開いてバンバン住宅が建って行った。それも日本全国、特に九州や大阪から移住してきた人たちが多かったと

          社会ではなく世間

          長野へ

           障害のアルなしにかかわらず個性として関わってくれた幼稚園は当たり前であるが2年間のみ。小学校に上がる年齢になり、やんわりと普通学級に行くことを抵抗された。あくまで健常児と同じクラスにと希望したら市の方から幼稚園に娘の様子を見学に来られた。おばあちゃん先生は、「ほかの子供と同じようにというけれど、すべて同じにする必要があるのか?この子はそれ以上でもそれ以下でもありません。その子なんです。」と言ってくれたのだが、入学式の日にさっそく担任の先生がクラスのこどもや父兄のいるところで

          小山台幼稚園

          長女の事を書くにあたり、今はもう無き、この幼稚園に巡り合えたことは私にとって宝そのものと言って過言ではないと言い切れる。幼稚園に入る年齢になってすごく悩んだ。一応公立の幼稚園に応募はしたが、その頃は倍率が高くて抽選で落ちた。それよりも市は障碍者枠で保育園に入れる事を進めてきた。その時は障害者という見方が嫌で、いわゆる健常児と同じように育てたかった。モンテッソリーやシュタイナーなど彼女に合うところがないか必死で探した。下に2歳の息子もいて3人目を身ごもっていたので通える範囲も限

          小山台幼稚園

          幼児期

           5人の子供たちそれぞれ育った状況は同じではない。  なぜなら最初の子は親としても初めての事ばかりで育児書ばかり見ていた気がする。主人は転勤族の国家公務員で全国どこに行くのかわからない。名古屋から東京に来た時は、辞令がでて引っ越し業者に依頼するにも東京方面として頼み、実際に住むところが決まったのは引っ越す3日前だった。2週間以内ですべてやらなくてはいけなかった。いつも押し入れに段ボールを潰してしまっていたし、入った官舎で3年もいれば一番の古株となる。それほど入れ替わりが激し

          母乳について

          人は胎児の状態で生まれてくるという説もあるくらい3歳までは非常に大切な時期だと思っている。出産は一つのステージだとすると次のステージは授乳期だと思う。 勿論母乳で育てたかった。だが最初はなかなか思うようにいかず、ミルクも足しながらでも、とにかくできるだけ母乳にこだわっていた。人間を育てるのはやはり人間の乳が一番生体として合っていると思うから。この時期は動物本来に戻るといっても良いかもしれない。母乳はまず必死で赤ちゃん自身が吸う行為をしないと出てこない。顎を使うことで脳を刺激

          母乳について

          あこがれの自宅分娩

          自宅分娩4人目でやっと!あこがれの自宅分娩ができた。本来の自然な姿、当たり前の事が現代ではハードルが高すぎる。自宅と言っても実家ではあったが助産婦さんが今は貴重な事なので是非助産婦学会の方に協力していただけないかと言われカメラで記録するということにもなった。昔のようにおじいちゃんはお湯を沸かしたり布団の用意をしてくれたりと大活躍。おばあちゃんも上の子たちの面倒を見てくれたりして家族総出の出産現場となった。主人も何とか間に合いカメラでの記録やもちろん臍の緒を切る儀式も4人目とも

          あこがれの自宅分娩

          助産院での出産?

          1回目の出産は前回書いた通りなのだが、本当のいきさつは少し違う。希望した助産院はラマーズ法の本も出版していた有名な所だったため予約満員ということで諦めざるを得なかった。そこで違う助産院を紹介してくれたというのが正しい。前回のこともあり今回は早めに予約した。その時に希望として自宅分娩を伝えたが、「勇気あるね。でもそこまで行けない。」と言われてしまったが、やっと希望の助産師さんのところで出産できるということで満足だった。今回は陣痛も順調にきて無事安産だった。そこの助産院はいよいよ

          助産院での出産?