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誰かの「いいね」より、自分に「いいね」してやりたい

気づけばあらゆるSNSに装備された「いいね♡」は、もしかしてもしかすると、私たちが自分を自分で省みる機会を、奪っているかもしれない。なんてことを、思った。

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私はごく普通の人間らしい人間なので、「いいね」があると当たり前にうれしい。たくさんつくともっとうれしい。元気が出る。

だけど、そのうれしいの裏側で、「いいね」の数が少ないときに落ち込むこともある。

この写真が可愛くなかったからなのか、この言い回しが悪かったのだろうか、この時間帯は人が見てないのだろうか、など、ただの女こどもな気持ちとビジネスライクな目線が入り乱れながら、少し、落ち込む。

だけど、今朝ふと鏡を見たときに思った。

私たちは、誰かの「いいね」を待つよりも、自分が自分にもっと「いいね」と言ってあげるべきなんじゃないか、と。

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先日ふらりと行った、なんとも居心地の良い食堂で働くご夫婦は、過度な期待も親切もなく、「当たり前に自分のやることをやる」それだけで十分幸せです、というような佇まいで、それはこちらにプレッシャーを一ミリも与えることなく、私はとても落ち着いた気持ちで130円の卵焼きと瓶ビールを頂いた。

あの人たちは「美味しかったです」と言われることなど求めてなかったと思う。私は過剰なくらいに人に気持ちを届けようとするところがあるのだが、その気持ちを届けたときの相手の受け止め方で、その人の歴史が見えたりする。

そのご夫婦の「はい、ありがとう。」
そこに、それ以上もそれ以下の感情はなかった。
そのカッコよさったら無かった。

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今の私は「いいね」の数に一喜一憂したり、褒められたら腰を抜かすほど喜んだり、嫌われたら立ち直れなかったり、興味を持たれないとさみしかったりして、まだまだまだまだ人の反応が気になってしまう。

それは、自分で自分を認める作業、自分に「いいね」をあげることを、サボっているからだと思う。

そう、それは、「サボり」だと私は思った。

私は私をサボりたくない。承認欲求が疼く時は、自分で自分を認めてやりたい。ビジネスとして人の評価や反応が必要なのはまぎれもない事実だが、それは私の尊厳を奪うものではなく、あくまで商品としてのつるうちはなへのレスポンスなので、研究して、改善をする、そこに落ち込みも悲しみも必要が無い。むしろ邪魔。それこそサボりだと思う。

「いいね」が蔓延するこの世界で、私を含む多くの人々が「誰かからのいいね」により自分を見失うことなく、「自分にいいね」をすることを忘れないように、そんな歌を歌いたいと、思った。

そういえば「ぶっちぎって光」は、愛する人たちにあまりにも真意を理解されていなかったことに気づいて頭がおかしくなりそうになり、夜中に泣きながら作ったのだった。私はお前らに理解などされなくてもいい、私は一人でぶっちぎって光になり、お前が私を思おうがどうだろうがこの先に行く、だけど同時に、お前が私を憎もうが忘れようが、どれだけ遠く離れてもお前のことを思ってる。そんな気持ちで書いたんだ。

いつかそんな気持ちを声を大にして叫ぶ必要も無いくらい、自分で自分を愛せるようになったなら、また違う歌をうたえるようになるのかもしれない。


でもね、最後に。あなたやあなたやあなたがしてくれる「いいね」は、やっぱりどうしても、私に勇気をくれています。だし、そのひとつひとつの「いいね」が積み重なって、「いいね」が世界に広がっていくこと、その素晴らしさも、私はいつも感じています。

期待しないからこそ、たった一人のあなたの「いいね」に「ありがとう」と思えること。あ、これだ。これだね。オッケー!!


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