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新潟と津軽三味線①
上越→新潟へ行ってまいりました。読者の皆様は、推しの応援やライブ観覧のためにどこまで足を伸ばしますか?今日は半ばストーカーチックなお話しを絡めつつ、新潟旅のお話しを。1泊2日の工程でしたので、前後半+所感の計3部作くらいで書ければなぁと思っています。どうぞお付き合いください。
きっかけは。。。
きっかけは6月のお稽古でした。
高橋竹春師匠と帰り際に雑談をしている時のこと、青森旅でいつもお世話になっている『高橋哲子先生(津軽民謡の先生です)が新潟高橋竹山会で唄われる』という情報をGETして、行きたいのだという話をしたところ『いけるなら絶対行ったほうがいいよ!』と背中を押してくださいました。まぁ、相変わらずのストーカー気質と言いますか(笑)、情報収集の成果といいますか、この話を師匠にしなかったらこんなにトントン拍子に新潟へ行くことにはならなかったことと思います。
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新潟高橋竹山会の活動は、youtubeを見て知っておりました。師匠とは手が異なるため、youtubeでの演奏を見よう見まねで全く同じように弾くことはありませんが、マインドセットや他の会派の方々が意識されている箇所など、さまざまな点で学びの多い動画をアップされておりますので、過去の動画も含め、ほぼほぼ見たのではないかと思います。当然、一度生で拝見してみたいという思いも出てくるわけで。
ちょっと寄り道を
ほんの少しだけ時を戻して、まだ三味線1年生の頃、あれこれと本を読み漁っていた頃に『瞽女』さんの存在を知りました。瞽女さんについて説明を始めると長くなってしまうのでぎゅっとまとめますと、江戸の時代から続く盲目の女性旅芸人を言います。瞽女さん自体は全国に居られたそうですが、『最後の瞽女』さんが上越の高田という地におられ、最近?廃業なされたことを知り、さらに『記念館』があることを知りました。せっかく新潟まで足を運ぶなら、学び多き旅にしたいと思い、上越経由、新潟市行きの経路で計画を立てることに。
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新潟と言っても広いです、電車の移動だけで1〜2時間は軽くかかります。詰め込み過ぎず効率よく切符を手配して向かうことに。東京から新幹線でおよそ2時間強、上越妙高駅でひとっ風呂浴びて、一息入れてからローカル線でさらに2駅進んで高田駅へ。暑さの影響や夏休みの時期も相まってか、人はまばら。あまり観光客もおらず、人が入り込むこともなく自由に写真が撮れる好環境!
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上越エリアは雪深いようで、屋根の雪下ろしがしやすいように家々に屋根へ上がるハシゴがかかっていたり、『雁木』と呼ばれる雪除けのアーケードのようになっており、お隣の家との雁木が隙間なく繋がるように作られているため、夏場は日差しも避けられる雪国らしい工夫が施されておりました。玄関も商いをされるせいか、昔の作りに準じているのか、ほとんどの家が引き戸になっており、とても風情のある街並みです。街自体も『雁木のある街、高田』としてPRしているようで、趣のある城下町という雰囲気でした。ここを年間何百日も瞽女さんは歩いていたんだなぁ、と思いながらミュージアムへと向かいます。
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大きなガラス張りの引き戸、はためく紫ののぼり、そこに瞽女ミュージアム高田さんがありました。古民家の1階、2階に所狭しと展示物が飾られています。実際に瞽女さんがお使いになられていた端折れ笠(道中、頭にかぶって暑さや雪を凌いだのでしょう)や、画家の斎藤真一さんによる瞽女さんの油絵、柳田國男さんを師と仰ぎ、ご自身も民俗学者で、親子で研究を続けられた市川信次さん、市川信夫さんによる成果が点在してありました。
一部については写真の許可はいただいていたものの、なんだか無粋な気がして、写真は撮らずただただ拝読させていただき、絵画を見ながら当時のご苦労などを想像してみました。ミュージアムと銘打っている現在、高田地区の瞽女さんは廃業しております。そのため、もはや文献でしか瞽女さんを知る術がありません。厳密には、お弟子さんがおられてその演奏を聴くことはできますが、現在も継続して瞽女さんを務めておられるわけではありませんから、『瞽女唄』は聴けても、瞽女さんでは無いんですよね。知るのが遅かったなぁ、と悔やみます。
そんな折、ふと目に留まった書物「津軽じょんから 〜瞽女日記〜」がありました。当時、画家の斎藤真一先生がお使いになられていたソファに腰掛け、書物に目を通します。紅く燃ゆる背景に涙する瞽女さん、過酷な運命から逃避することができずに命を落とす瞽女さん、そこには息が苦しくなるような絵画が沢山収められていました。
抑えきれない感情
ミュージアムをひと回りし、消化しきれないほどの感情にクラクラしながらも、瞽女ミュージアム高田で受付をされていた『NPO法人高田瞽女の文化を保存・発信する会』のアドバイザーである渡辺さんとお話をさせていただきました。津軽三味線の始祖である『仁太坊』もまた、瞽女さんから影響を受けたと言う話は知っておりましたので、三味線の歴史、瞽女さんとボサマの関係、そこに至る歴史や文化、民俗学などじっくりとお話をさせていただきました。どのくらいの時間お話しさせていただいたでしょう?閉館まであと1時間と言うところまでお話は弾み、
『ここで、演奏させてもらえませんか?』
話の流れもあり、思わず口にした言葉がこれでした。まだ三味線歴は2年とも浅くとも、瞽女さんやボサマ、師匠や先代の師匠の皆様がいてくださったことで、今の私がある、今の私にできることは、今ここで演奏することだ、ふとそう思ったのです。
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あの絵を見て、最後の高田瞽女さんのVTRを見て、民俗学の文献を読んだ私が選んだ曲は、『じょんから節』でした。もちろん、先ほど読んだ書籍の影響を多分に受けたからでしょう。
『生きる』とは?
演奏を終え、大変喜んでいただき、感謝の言葉もいただきました。が、
『あなたはお仕事をされているでしょう?環境こそわかりませんが、生活ができていますよね。当時の瞽女さんはこの三味線で生かされていたと思うと、その迫力はきっとすごかったのでしょうね。』
言い回しはだいぶ簡略化させていただきましたが、このことがば胸の奥にちくりと刺さったまま、今でも忘れられません。竹山先生も旅一座と共に演奏で各地を回られた時はご苦労されたと書物で読んだことがあります。『私の三味線はまだ娯楽の域なんだ』と言うことをこの高田の地で痛感したのでした。
ただ、私の三味線の道はまだ始まったばかり、アドバイザーの渡辺さんからは『この先が楽しみです』ともお言葉をいただき、感謝の気持ちでいっぱいです。他のお客様がいらっしゃるにも関わらず、三味線を弾かせていただいた経験は必ずこの先の私に影響があると信じています。アドバイザーの渡辺さん、お初にお目にかかる観光の皆様、拙い演奏を聴いていただき、ありがとうございます。
次回予告
次回、新潟と津軽三味線②では、新潟市で開催された『新潟高橋竹山会演奏会』の模様をお話ししようと思います。こちらもまた濃密な時間を過ごしました、来週までお楽しみに。
おまけ
今回の旅、若干お荷物が多かったので、三つ折りケースに三味線をしまって出かけたのですが、まだなれていないせいか、まぁ糸が伸びること伸びること(笑
弾いている途中どんどん音がずれていき『あー、こりゃもうどうにも修復できないな』と思いつつ弾かせていただきました。これも繰り返し三つ折りケースを使うようにしてすぐ演奏できる練習が必要だなと痛感しました💦
この件は、再来週のnoteで総括としてもお話ししたいと思います。
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