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【レポート】『ヴェニスの商人』と差別について、稽古場で話し合ったこと(種村剛さん)

現在弦巻楽団演技講座では、2023年3月25日〜26日に上演予定のシェイクスピア『ヴェニスの商人』に向けて、準備を進めています。

『ヴェニスの商人』の見どころの一つは、ユダヤ教徒の高利貸しシャイロックとキリスト教徒のアントーニオらの関係です。本作品でアントーニオは、シャイロックがユダヤ人の金貸しであることを理由に「唾を吐きかけ」「足蹴に」します。シャイロックはアントーニオへの憎悪から、借金の担保としてアントーニオの肉1ポンドを要求します。

ある日の稽古で、劇中の差別について講座生全員で話し合う機会がありました。現代を生きる私たちの視点から見ればアントーニオはシャイロックを「差別」しているようにみえます。しかし、戯曲の登場人物たちは「差別」の意識はなく、当時としては「当たり前」のことをしていただけという意見もあります。でも「当たり前」のことをしていたとしても、それはやっぱり差別ではないか……。そもそも、差別とはなんなのかという問いも上がりました。

この話し合いについて、出演もしながら「演出チーム」として作品研究もする講座生の種村剛さん(北海道大学 教員)が、差別について稽古レポートをまとめました。

このようにしてまとめられたレポートは講座生の間で共有され、戯曲の内容をより深く理解するための手がかりになります。今回レポートの一部をご紹介します。演技講座の創作の様子を知っていただければ幸いです。


差別とはなにか:「人の属性をもとにして、人を不当にあつかうこと」

「差別」は私たちの日常でも普通に使われており、多様な意味が込められています。この言葉の意味を、社会学の視点から整理してみます。

社会学は「差別」を差し当たり「人の属性をもとにして、人を不当にあつかうこと」とします。この一文を理解するためには、さらに4つの言葉の理解が必要になります。整理しやすい順から考えていきます。

ひとつめは「人」です。私たちが動物や植物を食べることは「差別」でしょうか。社会学はこれを差別とは捉えません。差別は人について成立するものだと考えます。

ふたつめの「属性」とは「個人の努力ではどうしようもできないような人に付随する事柄」です。具体的には、性別、国籍、出身地、民族、年齢、身分、出身階層(自分の親の職業や学歴)などを挙げることができます。属性の反対は「業績」といい「個人の努力で変えることができる人に付随する事柄」です。例えば、学歴、資格、職業などです。

性別で進学に有利不利をつけて振り分けることは、差別です。一方で、テストの点数で進学を振り分けることは差別とは考えません。性別は属性で、テストの点数は「個人の努力でなんとかできる」業績だからです。

みっつめの「あつかう」は「実際におこなうこと」を意味します。ユダヤ人を理由にして「悪口をいう」ことは「実際におこなっている」ことだと言えます。なぜならば、悪口を言うことは、目に見え、耳に聞こえるからです。

「実際におこなうこと」の反対は「心のなかで思うこと」です。「心のなかで思うこと」は目に見えたり、耳に聞こえません。まずこの二つが区別されることを確認しておきます。だから「ユダヤ人を理由にして内心ばかにしている」ことを社会学は「差別」とはしません。

しかし、「ユダヤ人を理由にして内心ばかにしている」(意識)と「ユダヤ人に対して悪口をいう」(行動)はつながっていると考えることが妥当です。また、演劇においてはしばしば「心のなかで思うこと」が独白として示されることがあります。心の中のことが表明された時点で、それは行動になり「差別」とみなされることになります。シャイロックに聞こえないように、仲間内で悪口を言い合うのも、差別といって良いでしょう。

整理すると、

・シャイロックにユダヤ人を理由に直接悪口をいったり、暴力を振るったりする。(差別)

・シャイロックに聞こえないように、ユダヤ人を理由に影で悪口をいう。(差別)

・シャイロックがユダヤ人であることを理由に、内心ばかにしている。(差別とはいえない、しかし、この意識が差別につながる)

となります。上は、差別と差別の意識を分けた上で、差別はグラデーションがあることを示しています。

さて、よっつめは「不当」=不適切です。これは私たちの価値と視点に関係するので整理が細かくなります。

「なにが不当」であるかを判断する人次第で、「不当」であるかどうかが違っています。

アントーニオがシャイロックにユダヤ人を理由に唾を吐きかけることを例に考えます。判断の視点は三つあります。

(1)シャイロック視点:シャイロックはユダヤ人の視点から、アントーニオがシャイロックにユダヤ人を理由に唾を吐きかけることを不当だと考える。
(2)現代人視点:観客は現代の価値観と現代人の視点から、アントーニオがシャイロックにユダヤ人を理由に唾を吐きかけることを不当だと考える。

ここまではわかりやすいのですが、アントーニオ視点には分岐があります。

(3-1)アントーニオ(をはじめとするキリスト教徒)は、自分がシャイロックに対してユダヤ人を理由に唾を吐きかけることは「不当ではない」と考えている。むしろ、ユダヤ人を犬と同じように扱うことは「当たり前」のことだと考えている。

(3-2)アントーニオ(をはじめとするキリスト教徒)は、自分がシャイロックに対してユダヤ人を理由に唾を吐きかけることは自分自身も「不当である」と考えている。つまり、差別をしていることに「自覚的」になって差別をしている。

この(3-1)と(3-2)についてさらに以下で考えてみます。


自分にとっては「当たり前」のことがなぜ、他の人からみたら「不当」になるのか

自分にとっては「当たり前」のことが他の人からみたら「不当」であると感じられる時、差別が生じています。では、自分にとっては「当たり前」のことがなぜ、他の人からみたら「不当」になるのでしょうか。

A. 不当でないことがルール上認められているから

B. 当人が差別ではなく区別であると考えているから

それぞれ考えてみます。

A. 不当でないことがルール上認められているから。これは、ある人にとっては「不当」であることが、しかし、世間一般としては「当たり前」のルールであり不当ではないことになっていることを指します。

例として、同性婚を挙げることができます。日本の現状では、異性同士だけに結婚制度は認められ、同性どうしの結婚はルールとしては認められていません。この場合、同性どうしが結婚できないことはルール上「不当ではない」、だから同性婚を認めないことは差別ではないということになる。

しかし、一方で、同性どうしが結婚できないのは差別であるという考え方も、また、同性カップルの中から起きています。「異性同士だけに結婚制度が認められている」ルール自体が差別的であり「不当なルール」であるならば、同性どうしが結婚できないことは差別であるとなります。

このような状態、つまり、私たちが「当たり前」だと思っているルールが実は差別的であるために、差別が生じることを、社会学では「制度的差別」と呼ぶことがあります。

B. 当人が差別ではなく区別であると考えているから。差別と区別は何が違うのかと関係します。まず私たち人間は集団生活を営む生き物です。集団生活を営むということは「仲間」と「仲間以外」を区別することです。「仲間」とは「大事にしなくてはいけないメンバー、殺してはいけないメンバー」です。「仲間以外」は「大事にしなくてもよいメンバー、場合によっては(例えば戦争状態)殺してもよいメンバー」です。つまり、集団生活を行うということは、区別を前提にして生活をするということです。

家族、親友、ふつうの友達、講座で会う人、同じ学校・職場の人、これらは「道ですれ違った初対面の赤の他人」とは異なり、何らかの意味で「仲間」といえるのですが、仲間の中にも「大事にする」ことの濃淡があり、扱い方に違いが出てきます。「恋人」と区別した相手と「友達」と区別した相手を私たちは違うように扱います。恋人と友達は同じように接しない(がゆえに恋人は友達とは違うより特別な関係になる)のです。

「仲間」と「仲間ではないもの」の扱いの非対称性、「仲間」の中の扱いグラデーションの中に、差別の萌芽があるように思います。「仲間」になりたいが「仲間」と認められないことは辛く、悲しいことです。また、私たちは状況においてこれまで「仲間」とみなしていた人を「仲間ではない」と置き換えることもあります。このことも気がつけば厳しいことをしているともいえます。「仲間になりたいがなれない」「仲間にしたいがそれができない」ことは、葛藤であり、わたしたちを悩ませます。つまり、差別にいたらない区別も随分と苦しいものなのです。

また、AがBとCを区別して、Bとは違う態度でCに向かう時、Aはそれを「当たり前」と考えていても、CはAに差別されたと感じることもありうるでしょう。アントーニオとしてはユダヤ教徒をキリスト教徒と違うように扱うことは単に区別しているだけで、それは「当たり前」のことであったとしても、シャイロックとしては差別であると感じることがありうるのです。 

まとめるとこのようになります。

差別と区別は違うものだともいえる。差別は良くないことである。一方で、区別は良い・悪いのことはない。しかし区別にもまた、区別される側にとっては差別とは違う辛さや苦しさがありうる。そして、区別から差別が生まれることもある。

では、区別をなくせばよいのか、というとそういうわけにもいかない。繰り返しになりますが、私たちは集団生活をする以上、区別をしなくては生活できないからです。このように考えると、人々を差別につながるかもしれなくとも、「区別」して接しざるを得ないことは人間の持つ「原罪」ともいえるかもしれません。


「自覚的」な差別はなぜ生じるのか?

最後に、『ヴェニスの商人』のテーマの一つである復讐から「自覚的」な差別について考えてみます。

復讐とは、正義を理由に相手を不当にあつかって良いこととします。裁判のシーン、シャイロックは、「復讐」を行おうとします。

シャイロックの復讐において正義の根拠は証文です。法を理由にアントーニオに暴力(1ポンドの肉を切り取る)を振るおうとします。

シャイロックの復讐において不当なあつかいは、暴力です。暴力は不当な手段です。

理由は簡単です。「自分は相手から暴力を振るわれたいか」といえば、暴力は振るわれたくないからです。自分にしたくないことを相手にするべきではないとするならば、暴力は否定されます。

なぜ、シャイロックは復讐を試み、アントーニオに暴力を振るおうとするのか。その理由はもしかすると、人を不当に扱う手段である暴力に魅力があるからかもしれません。復讐や暴力の魅力を説明することは難しいのですが、こう考えることもできるかもしれません。私たちは毎日の生活で暴力(や差別)を遠ざけようとして気をつけて生きている。でも、だから、相手に暴力を振るうことが正義の名のもとに許されたとするならば、私たちは「我慢していた暴力の欲求」に引きずられてしまうのかもしれません。

この点は、差別にもつなげることができます。なぜ差別が生じるのか。それは、他者を差別すること、相手が否定できないことで相手を蔑むことについて、暗い魅力があり、私たちは、他人を差別することを楽しんでしまうのかもしれません。

しかし、上の説明は憶測にすぎません。なぜなら、この説明は私たちのどこかに他者に暴力を振るうことや、他者を不当にあつかって貶める欲求があることを前提にしています。でも、そんな欲求は本当にあるのか、あるとしたらどこにあってどうして生まれたのか、これは社会学にはわかりません。もしかしたら、生物学や脳科学がその欲求の根源を進化や脳のメカニズムによって明らかにしてくれるかもしれませんが。

もしかすると、アントーニオはシャイロックをユダヤ人であることを理由にして、自覚的に不当に扱っているのかもしれない。もしかすると、彼はシャイロックを差別することを楽しんでいるのかもしれない。もしかすると、差別を楽しむ感覚はアントーニオらだけではなく、私たち自身の心の中にも潜んでいるかもしれない。それはさておき。

裁判では、その法を逆手にとって、ポーシャはシャイロックの復讐をくじきます。

一方で、裁判では、そのあとに、逆にキリスト教徒らからのシャイロックへの「復讐」が始まります。裁判のシーンは、どこかのポイントで、特にグラシアーノは、シャイロックに罵声を浴びせることを「楽しんでいる」のかもしれません。

そして、一見中立である公爵、そして、むしろシャイロックに慈悲を与えるというアントーニオは、シャイロックから大事なものを剥奪します。公爵はシャイロックから財産を、アントーニオは信仰を。そのことは法のもとに正しいこととされる。そしてキリスト教徒の若者たちにとって正しいことがなされて、大団円を迎える。

この大団円は、ポーシャが司った裁判で「正しさを認められた暴力」がシャイロックにふるわれた結果ともいえます。でも、いったん引いて考えると「ポーシャが司った裁判」は公正な裁判といえるのでしょうか?

現代の基準からすれば、そうはいえないはずです。この裁判はアントーニオやバサーニオへ肩入れする「不公正」な「虚飾に欺かれた」裁判です。すると、シャイロックは、不公正な裁判において「正しさを認められた暴力」で、財産も信仰も剥奪され、「生きるための柱」を引き抜かれてしまった。もちろん、それはシャイロックの自業自得ともいえるのですが。


正しさを認められた暴力を私たちは認めてよいのか

シェイクスピアが聖書を意識して『ヴェニスの商人』を書いていることは明白です。聖書の一節を引用します。

「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。」
マタイによる福音書7:1-2

この一節は『ヴェニスの商人』の裁判シーンに当てはまります。ここで考えなければならないのは「正しさを認められた暴力を私たちは認めていいのか」です。人を裁くこと、それは、正しさを認められた暴力になりうる。正しさを認められた暴力は差別の一つの形です。少なくとも『ヴェニスの商人』の裁判はシャイロックへの暴力・差別であるともいえるでしょう。その暴力や差別を「裁判」を理由に正当化して良いのか。

正しいのだから認めてよいというのが一つの答えです。しかし、それならばなぜ聖書は「人を裁くな」というのか。『ヴェニスの商人』が突きつける問題提起は、正しさを理由に戦争が起き、SNS上で軽々しく「論破」が語られる今の時代だからこそ考えなければならないと思います。


私たち弦巻楽団の講座生は、体を動かし、感覚を研ぎ澄ませ、頭をフル回転させて『ヴェニスの商人』に取り組んでいます。

ぜひ、その結果を劇場に足を運んで確かめてください!


『ヴェニスの商人』は3/25~26!!

本番は、2023年3月25日(土)~26日(日)です。地下鉄中島公園駅付近のシアターZOOで上演します。

劇団20周年、演技講座は10周年です。年齢・職業・演劇経験の垣根を超えて、シェイクスピアの傑作喜劇『ヴェニスの商人』を作り上げます。

みなさまのご来場、心よりお待ちしております!

▼公演情報・チケットはこちら

お問い合わせ
一般社団法人劇団弦巻楽団
メール:tsurumakigakudan@yahoo.co.jp

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