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正解というまがいもの


「君は君の人生の主役になれ」(鳥羽和久 ちくまプリマ―新書)

まだ読み始めなのですけど、グサッと来たのと、2月7日~8日の企業向けワーケーションモニターツアーでのキーワード「はずれ者の祭典」とマッチしていたので。

~~~ここから引用
大人になる過程で、多くの人は自分の生きる実感よりも適応(周りに合わせること)を優先させることで自信を失っていきます。その結果、自分が好きなようにふるまえないことに対して、できない言い訳探しばかりに明け暮れる大人になります。

生きる実感を大切に育てていけば、あなたはいつかきっと曖昧なことを曖昧なままに受け入れることを知ります。白黒つかない現実の中にこそ、生きる楽しみがあることを知ります。

いつも正解ばかり求めてしまうのは、生きている実感が足りないからです。実感が足りないから、その代わりに正解というまがいものにすがってしまうのです。でもそんな不確かなものに支えられて生きていくのは、なかなかしんどいことです。

なぜなら、それはまがいものだけに、肝心なときほど頼りにならないし、どんなに求め続けても満たされることがないからです。

社会に適応できないと生きていけない。そんなことを言う大人は嘘つきですよ。そんな大人の言う「社会」なんて、その人が見たせまい世界の断片でしかなくて、彼らはいまあなたが見ている世界を見ていません。

自分を窮屈な枠組みに閉じ込めることでしか生きることができない恨みを、子どもを通して晴らそうとしているんですから、そんな言葉に対して聞く耳を持たなくて良いのです。
~~~ここまで引用

鳥羽さんの本は「おやときどきこども」以来ですが、

参考:全力投球するのではなく、「全力投球する自分」を演じる(21.1.1)
http://hero.niiblo.jp/e491303.html

メタ認知って大切だなあと。
なんていうか、「自分を知る」というよりも「自分を捉える」のほうがしっくりくる。
常に変化し続けているからね。

引用した文章の後に、環境と自分の話がでているのだけど、
そんな風に自分を相対的に見る機会が大切だと。

昨日聞いたとある高校生の時に地域へ越境留学した大学生の話を思い出した。

高校入学後に地域活動を行い、その活動を推薦入試という枠組みを通して発表し、有名大学に進学した。それは高校魅力化の現場にとってもキレイなストーリーなので、界隈ではよく知られているし、むしろそれを目指したい地域は多いだろう。

そんな彼が語った言葉があまりにも重くて。
キーワードは「主体性」と「承認欲求」なのだけど。

「なぜあなたが主体性をもってこの活動に取り組んでいるのか」という問いに答え続け、うまく言語化できるようになり、そのストーリーを内面化していったと言う。

それは、鳥羽先生の本でいうところの「適応」と呼べるかもしれない。「適応」することで、評価は得られるが「自信」は失われていくと、鳥羽さんは言う。

これは僕も思っている「探究的な学び」そのものに対する違和感と近いかもしれない。

「探究的な学び」が求められる。そこでは「内発的動機付け」や「主体性」が重要視される。その出発点が「地域課題」であったりすると、ストーリーとしては魅力的だ。

しかしそれは「正解」に向かっていく従来の学びと何が違うのだろうか?

鳥羽さんの言う「生きる実感」をもっと大切にしていかなければいけないのではないか。
たまたま出会えた「偶然」的な出来事や出会いを大切にして、感性を磨いていくことも必要なのではないか。

「正解などない」だからこそ「探究的な学び」が必要になるはずなのだけど
いつのまにか「探究的な学び」からの大学合格みたいな正解ができてしまっていて。

そのためには「内発的な動機付け」と「主体性」が必要になって
それに「適応」してそのようなストーリーを内面化する。
そしてそれは「承認欲求」を満たすことになるのかもしれない。

そうして、むしろ自分を、「生きる実感」を、失っていくのではないか。
そんな風に思った。

正解を疑うこと。
世界をメタ認知すること。

たぶんそこから始める必要があるのだろうなと。

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