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「とどまる」のプロセスを経たものだけが「つながる」ことができる


「参加型社会宣言~22世紀のためのコンセプトノート(橘川幸夫 未来叢書)

読書サーフィン。
テーマは「アイデンティティの再構築」です。
今日は2020年に衝撃をうけた1冊からあらためて。

参考:
「永遠に中間なるもの」としての「私たち」の時代(20.7.9)
http://hero.niiblo.jp/e490856.html
はみ出し者の系譜(20.7.10)
http://hero.niiblo.jp/e490859.html

橘川さん、やっぱ先を言ってるなあと。

あらためてこの本から。

~~~第5章 P53 情報的自我より
これまでの近代的自我が、ひたすら学習と鍛錬で自らを強固に成長させていくものだとしたら、私が「情報的自我」と呼んでいるものは、影響を宇受けながら影響を与えていく情報環境の中に常に漂う自我である。(中略)双方向のシステムによって、個人意識と全体意識が絶えず交信するようになるだろう。そういう環境の中では、ますます一人ひとりの自律的な思考と感性が重要になってくるのである。
~~~

宮澤賢治先生「農民藝術概論綱要」序論を思い出す。

~~~
近代科学の実証と求道者たちの実験とわれらの直観の一致に於て論じたい
世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない
自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する
この方向は古い聖者の踏みまた教へた道ではないか
新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある
~~~

そういう時代。(賢治先生は1926年に書いていますけども)
その時、私たちはどう生きていくのか。どう、「つながって」いくのか?

「つながり」が叫ばれるようになってからかなり多くの時間が過ぎた。近代社会のシステムによって「個人」として分断された私たちは、ふたたびつながろうとしている。

このとき。
橘川さんの「よはとつ」図形が参考になる。

~~~第6章 よはとつ図形2020 P62より
よりそう時代⇒はじける時代⇒とどまる時代⇒つながる時代

寄り添った共同体から都市へとはじけ、国家をつくった。アメリカとは、ヨーロッパの故郷からはみ出した移民たちが作った都市国家である。

そしてまた都市からはじける者が出てくる。そういう人同士が「よりそって」できた共同体は、その中でまた独自の掟や作法が生まれて、それに反発する個人は、第三のムラからも、はじけることになる。

共同体から、はじけて「とどまる」こと。「とどまる」とは共同体から切り離された人間が、たった一人で、その場所にとどまるということだ。

辛く孤独な「とどまる」時間を通過した者だけが、やがて、「つながる」ことができる

きちんと「とどまる」時間を通過していない者どうしがつながっても、それは、疑似的な「ムラ」に何度も回帰するだけだ。そこからは何度も「はじける」しかない。

やがて、あらゆる局面で原始共同体が消滅するだろう。家族が、地域が、国家が、宗教が、そして都市も消滅するだろう。世界には、一人ひとりの個人しかいなくなる。しかし孤独だけど孤立ではない。ひとりがすべてと、すべてがひとりと、あらゆる局面でつながっているのだ。
~~~ここまで引用+メモ
辛く孤独な「とどまる」時間を通過した者だけが、やがて、「つながる」ことができる

そうなのか、と。「つながる」ためには、「とどまる」が必要なのだ。

大切なのは「よりそう」と「つながる」を区別することだと思った。ひとりとしての輪郭を持つ人だけが、「つながる」ことができる。

「よりそう」から生まれた共同体は、やがて「はじける」、または「はじける」人たちを生む。「はじけた」人たちは孤独に耐えられず、ふたたび「よりそい」共同体をつくる。

その共同体を「つながり」と呼んでいないだろうか?

「とどまる」のプロセスを経たものだけが、「つながる」ことができる、そんな仮説。
~~~
指導者も教祖もいない、純粋な個人として、意識を自由にできるものだけが、つながる意味がある。それが、ネットワーク社会である。
~~~

「つながる」ためにまずは「とどまる」。
自分という輪郭をたしかめる。
そのプロセスが大切なのだろうと。

「つながりたい」
それは、孤独に耐えられない、そして満たされない承認不安をなんとかしたいと思う心から来るのだろう。

山口揚平さんは、「まだ、会社にいるの?」(2013年刊)の中で、「承認欲求」がビジネスの主役になる、と語った。
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グリーやディー・エヌ・エーなどに代表される企業が提供しているものの本質はゲームではありません。彼らが提供しているのは、人に認められたいという「承認欲求」に対する満足です。

SNSのゲームを通して、武器などのアイテム、アバターを着飾るものですが、それらはゲームの世界において、他者に認められるための道具にすぎません。
~~~~
参考:何を表現するか?ではなく、何「で」表現するか?(16.11.14)
http://hero.niiblo.jp/e482804.html

「つながりたい」若者を、よりそい型の「コミュニティ」が狙っている。承認欲求を満たすフリをしながら。ほんとうは「つながり」が必要なのに。

「つながる」ために、まずは「とどまる」孤独を経験する。

自分という輪郭をたしかめる。そしてその輪郭を時に発揮し、特に取り払って、人と出会い、プロジェクトをつくり、活動をする。それによって得られるものを「つながり」と呼ぶのだろう。

まずは「とどまる」ことから始めてみたい。

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