心の境界線が消えた時
うつ病を始め精神疾患になることを「心が壊れる」とよく表現されるけれど、それは具体的にどのような状態なのだろうか。
私も実際に壊してみるまではどうなるのかわからなかったのだが、2年前にうつ病を発症して、それが何を意味するのか、どのような耐え難い苦しみを伴うのか身をもって理解した。
あくまでも個人の感覚にすぎないが、書き残しておきたい。
私にとって、心が壊れるとは、
心が持つ「境界線」が消えること
だった。
元々、健康な心というのは、外側に丈夫な膜があって、外部の影響からある程度守られているものである。図にすると、こんな感じ。
この状態にある時、人は、外部からの刺激や情報に対して、喜怒哀楽の感情によって豊かに反応する。一方で心は丈夫な膜に覆われているので、どんなに酷い出来事に出くわしたとしても「それはそれ、自分は自分」というようにある程度境界線を設け、自分の心が壊れないように守ることができる。世界でどんなに悲しい出来事が起こっていても、自分が破滅せずに済むようにつくられている。
一方で、壊れてしまった心というのは、外側の膜(輪郭)が破れて溶け、歪な形になり、内側を守るものが何もない状態になっている。壊れかけた家屋が、雨晒しになっているのと同じ状態である。
臓器に例えるとわかりやすいかもしれない。
半分腐った臓器が体の中にあれば、当然その部分は痛むだろうし、体の機能に何かしらの障害が生じるだろう。
心も同じで、あちこちに穴が開き、血を流している状態では、心の機能に障害が生じる。
心がこの状態になると、自分には直接関係ないはずのあらゆる事柄にさえも、深く衝撃を受ける。そしてその衝撃から受けた傷が、どんどん傷口を広げていく。
私は、うつ病になってから、「自分」と「外の世界」の境界線が、ほとんどなくなってしまった。壊れた心というのは、喜びや嬉しさには無関心のくせに、悲しみや怒りには過剰に反応する。
私はニュースがほとんど見られなくなったのが、それはあらゆるニュースに衝撃を受けすぎてしまうためだった。
世界では日々、あらゆることが起きていて、メディアは淡々とそれを伝える。殺人、殺人未遂、自殺、自殺幇助、放火、自然災害等々......。私はその都度、被害者に、遺族に、加害者に、共感してしまう。いや、共感という言葉では足りないほど、あらゆる立場の人々に「一体化」してしまうようになった。
1番酷かったのは、戦争のニュースだった。
ニュースというより、「今、この瞬間、人間が戦争をしている」という事実がもうだめだった。
私の心は、あっという間に兵隊に行く若者やその家族と「一体化」してしまう。戦争をしているのは違う国で、日本にいる限り自分が巻き込まれることは現時点でほぼない、という現実は、私の中で驚くほど無意味だった。
自分の大事な人が、戦場に行ってしまって、二度と会えなくなってしまう。その事実に、打ちのめされた。私の壊れた心は、戦争をしている国の、全ての女性や家族と「一体化」していた。
また、日常生活の中でも、壊れた心は、自分以外の人々の心の動きに敏感になっていた。
例えば、月曜日の朝。
私自身は療養生活のため曜日の関係ない生活をしていたのに、月曜日の朝は決まって体調がすこぶる悪くなった。体調の悪さで、「あ、今日は月曜日か」と気づくことも多くあった。世間の人々の「ザワザワ」は、布団を頭から被って寝ていても私のところまでやってくるのだった。
クリスマスやお正月の季節も辛かった。
私自身は街に出ていないしスマホもほぼ見ていなかったのに、人々のどこか浮き足だった心の波長が、私の心に流れ込んでくる。それは私を不安にさせ、ぐったり疲れさせた。
幸いなことに、今では私の心の膜は少しずつ再建され、それとともに心の境界線も回復してきている。それでも健康な時に比べれば、私は周囲の物事に過剰に影響を受けてしまうし、戦争のニュースはいまだに見れない。
これから時間をかけて、私の心が健康に近づいたとしても、この「一体化」の感覚は、簡単に忘れることはできないだろう。
それと同時に、もし全ての人が一度だけでも同じような「一体化」を経験すれば、この世界からあらゆる争いや虐げはなくなるのではないか、なんて思ったりする。
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