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解き放つために。


自傷行為や自殺、と聞いて、まず何を思い浮かべますか?
痛い、苦しい、それともドラマや小説、漫画の中の世界のできごと?
もしくはいわゆる構ってちゃん?死ぬ死ぬ詐欺、とも言われているのを目にしたことがあります。
つい2年ほど前にも、「自殺」をきっかけに恐ろしくて悲しい事件が起こったばかりの日本。
今日は、そんな「自殺」や「自傷行為」について書きたいなあと思い、パソコンを開きました。

と、いうのも。
現在在学している大学の学年末の課題で、 “Liberating Action Project” なるものが出されていまして。直訳するならば、『解放するためにおこす行動』とかになるのかな。社会的に大きな変化をもたらすことでも、自分の中だけの小さな変化、自分の周りのひとたちに伝えられるくらいの変化でもなんでもいい。何かを変え、解放するためにひとつ、行動しなさい。というものです。(もちろん、なっが〜いレポートの提出義務はありますが、笑)

今の私にとって何が “Liberating Action” だろう、自分自身を解き放つとしたら、何からなんだろうと考えていた時、手首にある無数の傷が目に入りました。
無数、というと大げさかもしれません。けれど確実に、少なくはない数の傷。
私は、リストカット経験者です。

このところ、というか、この2年ほど。特に座間の事件があってからというもの、ずっと心にモヤモヤとしたものがあり続けていました。
隠してはいないけれど、きっかけがなければ話すこともない。けれど確実に今の自分を構成する一部でもあるそれを隠しているモヤモヤ。事件とその後の社会の反応を受けて感じたモヤモヤ。
そのモヤモヤから自分を解放することを、私のLiberating Actionにしたいな、と思います。

この先は、少し深く自殺や自殺未遂、リストカットなどの自傷行為について書きます。トラウマや辛い経験を思い出す誘因となってしまう可能性もありますので、注意のほどよろしくお願いします。




「死にたい」「切りたい」
「ああ、今日はこんなに切れた。」

そんなつぶやきに心を痛めたことがあるひと。心配したことがあるひと。
もしくは、苛立ちを感じたことがあるひと。思うことはきっと様々だと思います。それでもやはり、批判が多いのではないでしょうか。

リストカットなどの自傷行為をする人や、SNSなどで「死にたい」とつぶやく人に対して、「人の気を引こうとしている」「どうせ死なないのに」というような批判をよく目にします。特に、前述の事件が起こってからはより一層そのような声が増えたように感じています。
自傷行為をしていたものとして、(まだ過去形で言い切る自信は80%ほどですが、苦笑)、いくつか、知って欲しいなあと思うことがあります。

まずはじめに「自殺企図」と「自傷行為」は違う、ということです。
この時点で、「死ぬ死ぬ詐欺」という批判は少しずれるかな、と個人的には思っているのですが、まあそのへんは、おいおい(笑)
ひとつの投稿であまり全てを語ると長くなりすぎてしまうし、何より、期限までに課題が終わらなくなってしまいます!(笑)
卒業できないのは大変困るので、今回はまず、自傷行為のことを。
あくまで私という個人の経験ですから、偏りはあるかと思います。けれど、自傷行為は世間が思っている以上に多くの人間が、色々な形で行っていることで、その背景には様々な要因があります。全部ひっくるめて「メンヘラ」や「構ってちゃん」というラベルを貼ってしまう前に、少し私の話を聞いてもらえたら、私の課題遂行(笑)に付き合ってもらえたら嬉しいです。

「傷の数だけ理由がある」

何よりもはじめに強調したいのは、傷の数だけ理由がある、ということです。冒頭にもすこし書きましたが、「自傷行為は構って欲しいだけで、本当に死ぬ気はない。」そう言われると、「そんなことはない」と否定する自分と、「まあそういう側面も正直多少あるよね」と肯定する自分とが心の中でせめぎ合います。ある時は死にたくてたまらなくて腕を切り落とすつもりで切ったり、ある時は自分を傷つけた相手に見立てて全ての怒りと恨み、悲しみをぶつけるように手首を裂き、またある時は誰かに心配して欲しくてわざと見えやすいところに傷をつけたりしました。たったひとりの人間だけでも理由や動機はこれだけ様々で流動的なのです。ひとりひとり違って当然。だからこそ、パブリックイメージが必然的に物を言います。世間は私たちの持つ傷をどんな目で見ているのか。

なので私はこの場を借りて、自傷行為に対する世間一般の認識を、ほんの少しでもいいから変えてみたい、試してみることだけでもしてみたい。やめろとは経験者として言えないが、やらないにこしたことはないに違いないのだから。そう思って書いています。

「傷の数だけ理由がある。」

そしてその中でただひとつ確実に言えるのは、「最初の一回」、はじめて傷をつけたとき、ほとんどの人が、人目を避けてこっそりと、「死にたい」というつぶやきのほとんどがひとりで、あるいは匿名のかたちで行われているということ。そう、どう考えても人の気を引くのに効果的なやり方ではないのです。これが何よりも先に壊しておきたい認識のひとつです。

自分のことなんか消えてもいいと思っているから。それくらい苦しいから、他人のことも、他人の視線もわかんないんです。ただ自分が苦しくなくなればそれでいい。自分の場合もそうでした。

じゃあなぜ、「アピール」と言われてしまう行動があるのか。
精神科医の松本先生の言葉がわかりやすいかな、と思うのでここに引用させてください。

『自傷は狂言自殺のようなものだと考えている人は多いでしょうね。たしかに、我々が気付くことのできる自傷は、人に見られることを意識してやっているものが多いと言えます。だからこそ他人が気付ける。しかし、自傷の大部分は隠れて行うものです。他者を意識するのではなく、人の助けを借りずに孤独に対処しようとするのが自傷の本質ですから。
(中略)自傷をみると、他者はびっくりしますよね。でも、その様子に本人もびっくりするんです。「私はいてもいなくてもいいような透明人間だと思っていたのに、こんなにも人にインパクトや影響を与えることができるんだ」と。本当は消えてしまいたいと思っている子たちにとって、これは大きな体験です。そこから、自分の存在を確認するために、他者の反応を意識する自傷に変化してしまう人もいます。』ー "皮膚を傷つけ生きていく——自傷は「狂言」で、取るに足らないことなのか" より

ああ、自分もそうだった、と胸にストンと言葉が落ちました。
自分なんかいてもいなくても変わらないと思っていたのに、見てくれている人がいた。それがポジティヴなものであれネガティヴなものであれ、当時の自分にはどうでもよかった。自分という存在が存在している事実になにか、こう、感動?当てはまる言葉が見つかりませんが、ある種の肯定を確かめていた気がします。
リストカットをすることで傷から痛みを得て、他者から肯定と否定を得ることでまた痛みを得る。否定されることも含め、痛みを得ることで自分という存在を確認していた、というか。けれどその「びっくり」は長くは続かず、またいつもの自傷に戻ったことを覚えています。あくまで氷山の一角、なんですよね。上で述べたように、他に痛みを消す方法がわからなくて、「ひとりで」「こっそり」行うのが自傷行為のはじまりで本質だな、と。

「人それぞれの痛み、その向き合い方」


さてさて、長くなってきてしまったので、今回はここで終わろうかな、と思います。
冒頭の話になってしまいますが、この文章の一番の目的は自分が「解放」、「自由になること」、そしてこの話をすることで、なにかが誰かの解放に、理解に繋がるといいな、と思っています。何だか話が大きくなってしまいましたが、自傷行為について考えることをきっかけに、新たな視点が開けることもあるのかな、と。
それに、リストカットなどの自傷行為や自殺未遂、それに自殺については、社会的に話すことそのものがタブーな風潮がありますよね。デリケートな問題だという事実が変わらない以上、それを壊したいとは思ってはいません。ただ、今、自分の痛みや経験と向き合い、解放したいという欲がある事実、そして私の周りの誰かの解放に繋げたいという欲があるという自覚があります。だからこそ、今私は話したいのです。ほとんど乗り越えられた今、最終ステップにいるのかな…。そもそもこうしてここで、こんな風に書くこと自体がある種の欲の解放だな、と思います。書きながら、どんどんすっきりもしてきてるんです。隠してた自分の一部をやっと話せた、みたいな。

感想や単純な興味本位の質問。批判。「引いた」とかでも。
もしくは、身近にリストカットをする人がいて、その人に聞きたくても聞けないこと。
疑問に思っていること、聞きたいことでも、なんでも。
傷つけるかも、とか、そういう懸念なく、このnoteのコメントに残していただけたら、と思っています。
そしてできる範囲で話していきたいなあ、と。それもまた、Liberating Actionの一部です。
協力していただけたら嬉しいです。

ではまた次回。
次は始めてしまったきっかけから、かな…。

ここまで読んでくださった方、ありがとうございました。



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