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聞こえるはなしと聞きたいはなし

ひさびさに友人たちと対面した。

オンラインの飲み会はもちろんいいと思うし、自分も何度かやっている。それは今後もコミュニケーション手法の一つとして残っていくと思うが、それでも会うことによる喜びは勝るところがある。

古い人間なのかもしれない?直接会わなくたって私は平気?

もちろんそういう方もいるだろうけど、自分はオンラインの比重が重くなればなるほど、人と直接会えることに喜びを感じるんだなと、最近身にしみて感じている。

オンラインでのコミュニケーションは能動的なコミュニケーションが必要である。しゃべる人はしゃべる。聞く人は聞く。オンラインで仕事をしていく上では、自分が能動的だろうが、受動的だろうが、対価として賃金が発生する以上、自分の責任を果たすために自発的な情報収集や、発信は必要であると思うし、それを自分のキャラクターが理由で動かないがために、情報が降りてこないと嘆く人たちは怠慢であると思うけど(釘をさしておくが、自分が積極的に情報を求めているのに他者や会社の問題で情報を得られないのは別問題だ…と、今は仕事の話がしたいのではないのでいったん横に置いておこうね)プライベートでのコミュニケーションの形は人それぞれだし、良い悪いはないし、みんなが一番心地よい方法ですればいい。それがあるべき姿だと思っている。

そのため、オンラインでのやりとりが得意な人も不得手な人もいる。自分はとてつもなく喋るし、自己主張も強いタイプなので、オンラインが苦手だとは思わないが、自分の話をするのではなく、人の話を聞きたいとき、特にセンシティブな話をしたいときにオンラインの距離感というのはイマイチ向いていないように感じる。

前置きが長く長くなったので、ここで離脱してしまった人がいるかもなと悲しい気持ちになりつつ、話をもとに戻すと、ひさびさに会った友人の中から結婚を考えているという話を聞いたのだ。その友人は積極的に自分のことを話す人ではなく、カフェや居酒屋ではなく、移動中の道すがら、歩いているときにふと気持ちを吐露してくれる人で、その話を聞いたのも、友人の新居にお邪魔した帰り道だった。

結婚した、でもなければ親に挨拶に行った、でもない。同棲も考えていて家を探しているが、まだ引っ越していない。そんな気持ちの変化は明確だが、人に報告する形になっていない人生の機微を分けてもらえるのは、実際に会って話している中だからこそ、聞けたこと、口を開いてくれたことなのではないかなぁと友人と別れたあとふと感じた。

自分の話したいことを共有するのは簡単で、SNSやビデオ会話、電話と、どのツールを選んでも好きな形で発信できる便利な時代だけど、自分が聞きたい、求めている情報以外の、友人の近況や考えを共有してもらうのはすごく難しい。根掘り葉掘り聞くのではなく、相手が話したいなと心を開いてくれるまでには、友人であろうとも、その時の見えない空気や温度感のような、「肌感」によって変わってくるものだと思う。

そのハードルを下げる一つが対面での会話だったんだろうなと、直接会うことがプレミアになったこの時代にしみじみ思う。

だから対面で会うことが正義!とは思わない。いろんな手法があることはいいことだ。でも、人や時と場合によって最適解というのはあるんだと、無意識に、でも意識をした途端、明確に感じながら一人、自宅で入念にうがいをした夜(うがい手洗いは人生の基本です)。

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