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バッジのある愛、ない愛

自分が考えていることは大抵やりたいことであって、なりたい姿を設定してから落とし込んだTODOではない。後につながるか、なんてやってみないと分からないはずなんだけど、そう進むわけにはいかない仕組みがある。それは未来を守る仕組みで、それがリスクを飲み込んでくれて、ちゃんとみんなを守ってきたことは確かだな。

でもね、自分がしてきた決断を思い返すと、成功するか失敗するかなんて考たことがなかった。やりたいかやりたくないかだった。やってみたいと思ったことはやらずにいられないのが私だった。…なんて欲まみれなんだ。例え周りから今ある環境を捨てるなんてもったいないと言われても、そのもったいないは誰のもったいないだよ、私のもったいないをちゃんとみてくれたの?と思っちまうぜ。もったいないと言ってくれる人はみんないい人なんだけどな。

年上の人たちはいままでやってきたことが私よりも多いから、やってきたことに対して成功や失敗のバッジがちゃんとついている。だから色々言ってくれるんだろうなぁ。私はそのバッジを一つも持っていない。それなりに23年生きてきたので、やってきたことに対する成功とか失敗の認識はあるけど、思い出すのは達成感だけなんだよな。だから私は自分のやりたいことをやるだけで幸せという文字通り幸せヤローなのですが、守る仕組みとどうも噛み合わない。守られて不幸せ?何て守られ不幸な私なんだ。

バッジのある人からいろいろ言われる日々が続いている。別に嫌ではないんだよ。日々いろいろな種類の愛をもらっているなとつくづく思う。だってそれだけ私のことを考えてくれてるってことでしょう。じゃあバッジを持っていない私があげられる愛は何かって言うと、どんな未来でも受け止めることだと思っているよ。私は強いよ。バッジのない愛をあげる。

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