エッセイを摂取するとき
エッセイはおしゃれなカフェとかで一気に読むもんじゃない。
人間の感覚を自分の中に入れるという行為は用法・用量を守らないといけないようで、守れなかった私は吐き気を催している途中だ。
言葉にはその人間が現れるとはよく言ったもんだが、現れたその人間には一貫性がないことが往々にしてある。そんなの当たり前だし、お互いにそれを許しながら受け入れながら日々社会で交わっているのだけれども、
だけれども、その人間に一貫性を見つけたいという欲望は確実にあるでしょ。この人はこういう人だって言いたいし、言わなくても自分の中でカテゴライズしたい。誰かの感覚を受け取る時は、ついでにその誰かを分かりたいという欲望が出てきてしまう。私はその欲望を、顔も知らないエッセイストにも抱いてしまった。勝手にめんどくさくてごめんなさい。分かりたい。分かりたい。でも分からない。吐きそう。
エッセイ嫌いなの?と言われそうだが、むしろ好きだ。というかなくてはならない存在だ。日常が少し単調、頑張っても頑張らなくても同じリズム、何も感じなくなった時こそが私にとってのエッセイを摂取をするタイミング。読んで、元の自分へ戻っていく。何も起こらず終わっていくと思っていた世界はたちまち、言葉に溢れる。自分の言葉の引き金になるのは決まって他人の言葉だった。
ね、これを読む人、私をわからなくていいから、あなたの言葉の引き金として私の言葉を摂取してください。用法・用量を守ってねと言えるくらい、まだ数を書けてないけども、近い未来はそうなってたいな。ま、でも用法・用量守らないで、私の言葉で気持ち悪くなっちゃって、でも読みたいなんて狂ってくれる人が出て来たら、それはそれでいいね。果ててしまいそうにいいね。
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