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閉鎖病棟の中の世界が正常で、おかしいのは外の世界だと思っていた



閉鎖病棟に一年だけ看護師として勤めていたことがある。 

あのころ、閉鎖病棟の中の世界が正常で、おかしいのは外の世界なんじゃないかと思っていた。


今でもたまに思う。


最近、眠剤を処方してもらうため精神科クリニックに通うようになった。

そこの待合場には色んな人がいる。

見るからに辛そうな人。落ち着かない様子の人。支援員の同行を受けている人。風呂に何日も入れていないのかな…という人。一見メンタルに不調を抱えているように見えないサラリーマンらしき人や綺麗な服装をしたOLらしき人。

何かしらの精神的不調を持っている人がごちゃまぜになっている場に身を置いているとき、ふと思う。

この精神科の待合場が正常な世界で、異常なのは外の世界なんじゃないかと。

何を根拠にそう思うのか、上手くは説明できないけれど、私の中ではその感覚がずっとある。


人に言っても理解される可能性は低いだろう、
訝しがられるかもしれない、
中途半端に話したら精神科患者への偏見を助長してしまうかもしれない、
そう考えてリアルの場で公言するのは控えているので、せめてインターネットの海でこっそり吐かせてほしい。




  *  *  *




私の学生時代は、ひとことで言うと「クズ看護学生」でした。

いかにバイトのシフトを多く入れるかに重きを置いていて、看護という学問にはまるで興味を持てず、最低限度の労力で進級さえできればいいやっていう学生でした。

講義中に爆睡する、レポートや実習記録は最低字数しか書かない、そんなどうしようもない奴でしたが、唯一興味を持って熱心に学ぶことができたのは精神科領域でした。

看護学科のカリキュラムには実習があります。

4年制大学の場合は、3年生の秋から4年生の夏にかけて、急性期病棟、慢性期病棟、産科、小児科、精神科、訪問看護、老人施設、と色んなところに数週間ずつおじゃまして学ばせていただくのです。

同級生の中には、精神科の実習が一番きつかったと言う人もいましたが、私には精神科の実習が一番興味深かった。


そのまま流れで精神科病院に内定をもらいました。


精神科患者を看るうちに看る側も病むのは珍しくない話です。
「病まないようにね」と教員や同級生の中には身を案じてくれる人もいました。


就職後は、閉鎖病棟に配属されました。



閉鎖病棟はどういうところなのか。

ます扉が何重にもあって鍵も厳重にかかっています。

飛び降り防止のため、窓は数センチしか開かないようになっています。

その窓にはさらに柵がついていることもあります。

閉鎖病棟の中には、保護室という布団と便器しかない個室部屋もいくつかあって、そこはモニターで常にナースステーションから見られるようになっています。

入院して数日ほどで落ち着いて開放病棟に移る人もいれば、何十年と閉鎖病棟にいる人もいます。

精神状態がとても重かったり、自殺未遂の後遺症だったりで寝たきりの人もいます。

身体拘束を受けている人もいます。




閉鎖病棟で新米看護師として働いていたときの記憶を引っ張り出すと、いちばんに思い出すのは「聞き取れない!」と詰みまくっていた記憶です。

私は生まれつき聴き取りに少しだけ難があります。
同じ病棟の医師や看護師にどれだけ嫌な顔をされようと怒鳴られようと、患者様に間違ったことをするわけには絶対いかないから、すいませんと連呼して何度も指示を聞き返していた記憶が蘇ります。

聞き取れない不便さが辛くて一年で離職してしまったものの、精神科看護そのものへの辛さは、それほどは感じませんでした。




ほんの一年間の勤務期間でしたが、鮮烈な記憶は多くあります。

錯乱状態の人の身体拘束や着替え、おむつ交換をしてるときに殴られ蹴られ、青あざがいくつもできたり。

便失禁状態で暴れる人の対応をして、ナース服や髪の毛が便で汚されたり。

幻聴や幻覚、妄想症状があり、明らかに非現実的な事柄を現実と信じ込んで生きている方が何人もいたり。

暴言のオンパレードを浴びたり。

大変なことは毎日のようにありましたが、患者対応そのもので病むことはありませんでした。



それは患者様の行動を、その人自身の悪意ではなく精神症状によって起こっているものと頭で捉えていたことに加えて、私の中で「この世界こそがまともで、おかしいのは外の世界なんじゃないか」という感覚があったからです。




世の中には汚い部分があります。

汚い部分を見ることなく、あるいは自分とは無関係と目をつむり、あるいは綺麗事でコーティングして、外の世界で暮らしている人よりも、汚い部分に傷つき狼狽えるほうが正常なんじゃないか。


また社会では足並み揃えることが求められます。

週に5日、学校や会社に決められた時間通りに行き、集団の中でうまくやりつつ学業や就労をこなすシステムに、適応できない人もいるのが正常なんじゃないか。(全員がそのシステムに難なく適応できる世界のほうが不気味な気がする)


この世で上手く生きられている人よりも、上手く生きられない人のほうがまともで人間らしいのではないかと、私の中で思うことがありました。




精神科患者の中には、「今までよく生き延びてきたな」と思わずにはいられないような、壮絶な人生をサバイブしてきた人がいます。

過酷な環境において緊張状態の日々を過ごす中で、心のバランスが崩れてしまうのはむしろ自然なことではないか。

人の心というのはそれだけ柔らかくできているのだと私は捉えています。




精神科というのは偏見の多い科です。

プライベートで精神科の看護師をしてると話すと、「キチガイの相手をしとるんか、大変やな」と返ってきたこともありました。
そこまであからさまでなくても、相手が反応に困っているのが見てとれることはありました。


看護学生や看護師の中でも偏見はありました。


学生時代、精神科の実習班のメンバーに珍しい苗字の学生がいて、たまたま実習先の患者様も同じ苗字だった、という偶然がありました。
その実習メンバーは「精神科患者と同じ苗字とか嫌。遠いところで血が繋がってないといいけど。」と冗談めかして話していました。

一般病棟(みなさんがパッとイメージする、身体の疾患の人たちがいる病棟です)にも、精神疾患を持つ方が身体疾患も併発して入院されていることがあります。
一般病棟に実習に行っていたとき、そこの看護師から「あの人はプシコだから」と耳打ちされたこともありました。
(プシコというのは「精神疾患を持った人」という意味の隠語です。私が学生だった何年も前は、差別的ニュアンスを含めて一般病棟で使われていました。)



それでも私の中では、おかしいのはあなたたちではないか、精神を病む(つまりそれだけ柔らかな心を持っている)人たちの方がまっとうなのではないか、その感覚は揺るぎませんでした。




  *  *  *




とりとめのない雑記となりました。

インターネットの海のどこかにこの感覚が伝わる人がいるかもしれない、そんな淡い期待とともに、何年間も私の中で溜めてきた、なかなか理解されないであろう感覚を出させていただきました。

読んで下さった方、ありがとうございました。