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発達障害は個性なのか


私は発達障害の当事者です。

幼少期から10代にかけては発達特性が顕著で、行く先々で問題を起こしてきましたが、今は「表面上は」落ち着いています。

根本的な特性は変わりませんが、数々の失敗経験から学んだおかげで初対面で「発達障害に見えない」と言われることも増えました。




しかし今もなお、短期記憶や聞き取りの弱さ、感覚過敏による不調の起こしやすさ、脳疲労の起こしやすさといった根本的特性は色濃く残っており、生活や就労面での不便は続いています。




ところで、「障害を持った人」という肩書きで世間に出ると、「障害は個性」という言説に出くわすことがあります。

メディアからのメッセージで目にすることもあれば、身近な知り合いから言われることもあり、いずれも好意的な文脈で発されていました。

「障害は個性」論は、何かしらの障害を持った当事者だったら耳にしたことが一度や二度はあるかと思いますが、発達障害は特にその言説を当てはめられる頻度が高いように見受けられます。


私は発達障害を持ちながら28年間生きているのですが、その言説は聞きすぎて、すでに耳にタコができています(笑)



そもそも何を持って障害は個性という考えに至るのでしょうか。


私の憶測としては、下記の意味合いが含まれていると考えています。





●誰もが持つ違いの延長として意味合い

身長が高い低い、運動神経が良い悪い、手先が器用or不器用、といったふうに誰もが持っている特徴や得意不得意の延長として発達障害を捉える考え方があります。
発達のアンバランスさは誰もが大なり小なり持っていて、それが社会生活に支障を来たすレベルになると「障害」になるわけですが、その間には「発達障害グレーゾーン」といわれる、健常者とも発達障害とも言い切れない層も存在しており、どこまでが健常でどこからが障害なのか、明確に区切れるものではありません。




●キャラクターの延長としての意味合い

発達障害の特性はときに、その人のキャラクターを味のあるものにし、それが非凡な魅力として光ることがあります。
言動がユニークでずっと眺めていても飽きなかったり。発想が豊かで斬新なアイディアを活かして創造性を発揮していたり。世俗に染まっておらずどこか謎めいたオーラを持っていたり。
これらは私が発達障害の人たちに感じてきた魅力であります。






●個人を形成する要素の一つとしての意味合い

例えば、私という個人を見れば、「哺乳類ヒト科」「女性」「アラサー」「労働者」「納税者」「レズビアン」「独身」「インドア」「アイドルオタク」といった沢山の肩書きを持っていて「発達障害」もその一つであります。
発達障害であることは、価値観や職業選択など多くの面に影響を与えており、自分を形成する要素として大きなウェイトを占めていることは事実です。
発達障害ではない自分を想像する事は難しく、発達障害であることは自分の大きな特徴の一つにもなっています。




これらの意味合いを踏まえると、当説を即座に否定することは相応でないように感じます。




「障害は個性」と捉えることのメリットとしては、当事者も非当事者も障害を受け入れるハードルが下がりやすくなる、という点が考えられます。


「障害」って言うと、どこか暗くマイナスなイメージがあるんですよね。

そこで「障害」を個性の延長と捉えることで、障害特性を受け入れやすくなることは当事者/非当事者に関わりなく有りうる事と思います。

中には、「あなたに対して差別や偏見を一切持っていませんよ」「仲間の一人と思っていますよ」という好意を伝える表現として、「障害は個性」を使う人もいます。





また世間には「障害者に優しくしましょう」とか「障害者を笑うのはいけません」とかいう道徳が存在していて、それが進みすぎると、障害者が「腫れ物扱い」になってしまうことがあるんですよね。

私としては、フランクに接されるほうが好きだし、なんならいじられると喜ぶところもあるので(笑)、世のみなさまから「親切にしなきゃ」という心構えで接されるのには落ち着かなさを感じます。
個人的には、発達のアンバランスさを「変わった奴」というキャラクターとして認識されるほうがラクです。

「障害は個性」という考えが浸透することによって、世のみなさまが障害に対して構えずに済むならば、それは私にとってもメリットになりえます。




ここまでを見ると「障害は個性」論は、悪いものではないように思えます。



しかし一方で、「障害は個性」論は、当事者の抱える課題や苦しみを見えにくくし、支援から遠ざけてしまうリスクをはらんでいるのです。




発達障害の場合、本来の特性に加えて、公的支援で対応していかなければならない関連問題を抱えていることが多々あります。



例えば、

・障害特性によって社会と軋轢を起こしやすく、そのストレスが重なることによって二次的に精神疾患を抱えたり、犯罪行為など反社会行動を起こしやすいこと

・  就労の困難さ(発達障害の場合、障害雇用枠だと平均月収は12万円、そのほとんどが非正規雇用というデータがあります。また発達障害者は短期離職を繰り返しやすいと言われています)

・  虐待リスクの高さ(発達障害を持つ親が虐待をするリスク、発達障害を持つ子が虐待を受けるリスクは、それぞれ健常と比較して高いと言われています)

・  8050問題(中年のひきこもりの中には発達障害を見過ごされたまま大人になり、職場に適応できずに引きこもるようになってしまった方が多くいると推測されています。)

・  発達障害の平均寿命35歳説(これは欧米で言われている説です。発達障害を持った人は、自殺リスクが高いこと、ストレスが多く心身を壊しやすいこと、障害特性による不注意から事故を起こしやすいこと、障害特性から健康に気遣う余裕がなく不摂生になりやすいこと、などの要因から平均寿命が35歳と言われているものです。)



これらの問題は決して個性で済ませていいものではありません。



今、これらの問題に直面している人にとっては「障害は個性」論は、残酷ですらあります。


 * * *



2020年夏、ある企業が「生理は個性」というメッセージを発信して炎上しました。

生理用品の広告キャンペーンで「生理に伴う諸症状を『個性』と捉えれば、私たちはもっと生きやすくなる」というメッセージが出されたもので、ネット上で多くの批判が集まりました。

「身体に不調を起こすものを『個性』と呼ぶのはふさわしくないのでは」と疑問視する声や、「生理痛を個性で片付けたら婦人科を受診する機会を逃しかねかい」と危惧する声が上がっていました。

これは「障害は個性」にも共通するところがあると思います。


発達障害者には、感覚過敏や疲労しやすさ、睡眠リズムの乱れやすさ等の身体症状を持つ人も多いです。

私の場合は、発達障害によく見られる感覚過敏を持っていて、長時間にわたって苦手な感覚に晒されると強い疲労感や、ときに耳鳴や頭痛を起こします。
これを「障害は個性だから」でまとめられたくはありません。

体質で頭痛や耳鳴を起こしやすい人に対しては、「個性」なんて意味づけをいちいちしないでしょう。
それが「障害」となると、個性というキラキラした意味づけをされるのは違和感があります。
「個性」という曖昧ながら綺麗に聞こえる言葉に片付けられることは、治療や支援を得る機会を逃すことに繋がります。


 * * *



もしも「障害は個性」論を主張する人々に、それならば私と脳を交換して下さいよ〜って持ちかけたとしたら、何割の人が快諾してくれるでしょうか。

いざ自分が障害の当事者になるとしたら、抵抗を持つ人の方が多いのではないでしょうか。


人は誰しも健康を望みます。 
障害は無いに越したことないのです。


個性的なのはその人のキャラクターや感性であって、障害は障害です。
障害は本人の生活や就労にハンデをもたらすものであり、そのハンデは社会によってカバーされるべきものであり、決して尊いものではありません。



もしも真に発達障害が個性となるとしたらそれは、理解が世に浸透し、支援や治療の選択肢が十分にあり、障害の不便さが「背が小さくて高いところが届かないから誰かにとってもらおう」「方向音痴だからアプリの音声案内に頼ろう」くらいの小ささになり、健常者と変わらない生活が送れるようになったときです。

障害特性による生活や就労上の困難、そして社会との軋轢によって生まれる諸問題が解決されていない現在を見れば、それはまだまだ未来であるように思います。





最近は、子供の発達障害の支援は充実しつつあります。
専門の小児科医や療育の選択肢も増え、保育現場や学校現場でも知識のある先生が増えてきているそうです。

私が子供だった20年前を思うと、目まぐるしく進歩する発達障害児の支援の状況に「私も子供のとき理解ある環境で過ごしたかったあああああ」という羨ましさと同時に、心強さを感じます。

今生きている発達障害のお子さんの未来がどうか穏やかなものであってほしい。



一方その陰で、支援を受けられないまま何十年と過ごし、無理解の中で何度も傷つき、今も必死にもがきながら生きている大人たちの存在を思わずにはいられません。

大人の発達障害は、本来の発達特性に加えて二次的な問題を抱えているケースが非常に多く、また周囲から排除されてきた経験からとてもネガティブだったり攻撃的だったりする人格が形成されていることもあり、子供への支援に比べると困難を極めます。




彼らが全員救われる世界は非現実的かもしれません。


それでも彼らが全員救われない限りは、社会に「障害は個性」論は存在してほしくない。
これが私の本音です。




「障害は個性」論は、当事者が「障害に縛られないために」「自分を受け入れるために」それぞれの思いで自分に言い聞かせる分には大いに結構だと思います。


しかし現段階においては、他者に向けて使う言葉では決してないと私は思うのです。






おしまい。



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