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【小説】新月の夜、青の波 (第5回/全15回)

 翌朝はシリアルやスクランブルド・エッグなど、ビジネスホテルのバイキングのような朝食が供された。
「なるほど!あえてのビジホ風朝食!案外これは旅先気分が盛り上がる!」と伊織は喜び、桐田さんは「干物、海苔、梅干しの和風旅館コースもできますよ」と笑って「でも今日はこのあと味噌を漬物とお魚たっぷり食べるから」と付け加えた。さすが組み立てに抜かりがない、と感心していると「軽めの朝にして、食後ちょっと休んでからお灸をして出かけましょう」と児玉さんが言う。伊織と千里ちゃんは「豪華すぎる!」と同時に声を上げてしまった。
 今日もときおり薄日がさす穏やかな天気で、雪の心配はなさそうだが空気はしっかりと冷たい。一行は桐田さんの車に乗り込み、まずは沖ばあちゃんの家を訪れた。そこは古い田舎家であったが、味噌や漬物を仕込むスペースは比較的新しく、とてもきれいに掃除されていた。コンクリ土間で床全体を水で洗えるようにしてあり、作業台や道具類もきれいに整頓されて棚に収められている。手作り味噌にありがちな微妙な異臭(慣れればそれがうちの味、というものにもなるのだが)が一切ないのはこの衛生管理の賜物であり、沖ばあちゃんは保存食作りについては達人、というよりはプロという言葉がふさわしかった。
 きけば学校給食調理などの経験があり「几帳面もあんまりすぎたら嫌われるんや」とみずから評する性格もあって、作るものはなんでも好評を得てきたのだそうだ。息子さんが「老後の楽しみに」と小さな作業場を作ってくれてからは、仕事がしやすくなって、八十路の今も気軽に仕込み作業に励んでいる。ただし大量には作れないから、完全に製品レベルのものであっても、近隣の知り合いにあげてしまったり、安く譲っているという。田舎で人知れず、こうした質の高い食べ物が作られていることに伊織は感動し、自分にはやや欠けている几帳面さがいかに重要か、と思い知り反省もした。それにしてもここにある沢庵、糠漬け、梅干し、干し柿、干し椎茸、いろいろな瓶詰め、味噌などどれをとってもその存在感がすばらしい。きちんと作られていているがわざとらしいアピールがなくて、すがすがしく自然体だ。自分はどういう形でそこに近づいてゆくか、もっと学ばなくては、と伊織は思う。「いいなあ、ここでしばらく修行したいよ」と伊織がもらすと、「わたしも!」と千里ちゃんがすかさず言った。
「いいね、ダメ弟子をふたりも見てくれるかな」
「半人前もふたりいたらなんとかなるんじゃない?逆にもっと迷惑?」
そう言ってはははと千里ちゃんは笑った。

 こういう、なんでもない小さな希望を口に出すことを、これまで千里ちゃんの前では控えてきてしまったな、と伊織は思う。身も蓋もないいい方だが「先がない」人に、先のことを話すのは酷じゃないか、と慮ってのことではあった。けれどもかえってよくなかったかもしれない。
 人が思うことの大半は、やっぱり未来を向いているのだ。ままならぬことばかりで息が詰まる時に、たいしたあてはなくともささやかな未来への希望を、いかにも軽々しく口に出してみるだけでも少し風穴が開いて、見えている景色がちょっとだけ変わってくる…そういうことも、もしかしたらあるんじゃなかろうか。千里ちゃんのきらきらした目を見ながらそんなことを考えていたら、さっきからさんざんつまみ食いをしているのに、お腹がすいてきた。
 黒豆などのおみやげまで持たされ、感謝しつつ沖ばあちゃんの家を辞した一行は北上して海に向かった。児玉さん推薦の海鮮料理店にて、冬の日本海の魚介ランチである。
 この時期はズワイガニがいちおしでその次がブリということだが、そればかりというのはつまらないから、四人でばらばらにいろんなものを注文した。伊織は豪華に脂ののったブリに感嘆し、千里ちゃんはけっこうカニに執着して丁寧に身をほじって食べた。グジなどなじみのない魚もあってどれもおいしく、こうなると地物ではないマグロやサケまでふだんよりずっとおいしく感じるから不思議である。
 ここまで運転をしてくれた児玉さんは、あとは桐田くんにまかせた、といって熱燗を頼んだから、伊織もひとくち分けてもらう。窓の向こう、遠くに日本海が見える。やわらかく温かい酒をひとくちふくんで、伊織は心底うっとりした。
 ここまで来たら、日本三景のひとつである天橋立を見ねばならない。天橋立を一望できる傘松公園は、けっこう高い山の上にある。昔ながらの一人乗りリフトがかかり、寒いなかゆらりとリフトに揺られている物好きもいるが、すぐわきには空調完備のケーブルカーが並行していてどちらでも好きな方に乗れるから、伊織たちも含めてたいていの人は迷わずケーブルカーに向かう。ところが千里ちゃんはさっさとリフトに乗りこむと、ひとり虚空に浮かぶようにして上っていってしまった。気が進まないが伊織もあわててあとを追ってリフトに乗り、予想通りの寒さに震えながら山頂にたどり着いた。
「こんなに寒いのに平気なの?」と伊織が訊いたら「空中に浮かんでるみたいで気持ちよかったよ。帰りもリフトにする。いっぱい着てカイロして、対策は万全なの」と千里ちゃんは自信満々であった。
 天橋立の不思議な眺望や、お土産の買い物を楽しんだあと、帰路も伊織と千里ちゃんはリフトに乗った。桐田さんは展望台でもあまり前の方に立てないぐらい高いのが苦手だし、児玉さんは「ほろ酔いだから落ちそうでこわい」とのことで、登ってきた時と同様、千里ちゃんと伊織のふたりだけがゆらゆら揺れながら麓に向かう。一人がけの小さなたよりないイスに座ったまま急斜面を飛び降りるようで心もとないが、眼下の風景を窓越しでなく、ダイレクトに望めるのは迫力があった。はるか沖合いには冷たそうな雪雲がかかっているが、こちら側は淡い陽光が雲間からのぞき、黒々と松を茂らせた長い砂州にすっぱりと切り分けられた海が、きらきらとうすい金色に光っている。
「下りの方が、眺めがいいー!」ほかにリフトの乗客がいないのをいいことに、千里ちゃんが叫ぶ。千里ちゃんは普段から小声で話すから叫ぶのは不慣れで、今日もたいして大きな声は出ていない。ここは大声が得意な伊織が手本を示すことにする。
「酔いざめでー!めちゃ寒いー!」
しかし伊織の大声も風に散らされ消えてゆく。雲の切れ目からさあっと陽がさして、ワイヤーにぶらさがってゆらゆらと揺れるふたりの影が地面に落ちた。
「寒くなんか、なーいー!」もう一度、千里ちゃんが叫んだ。さっきより声が通る。
「海ーっ!きれいーっ!」
 山麓に降り立つと、桐田さんが「なんかワーワー騒いでるの、ケーブルカーまで聞こえてたで」と言った。「なかなか楽しそうで、何よりです」

 すぐ近くにこの神社があるので立ち寄って、柏手を打ってきた。大きくて壮麗な神社である。伊織は占いとかスピリチュアルが好きだから、この神社のことは少し知っていて、奥社にあたる真名井まない神社は有名なパワスポなのだと解説した。
「パワスポといえば」桐田さんが返す。
元伊勢もといせ三社って知ってます?ここからうちに帰る途中にあるんですけど」伊織も千里ちゃんも首をかしげる。
「伊勢神宮って昔はこのへんにあった、という伝説があるんです。それがここ籠神社と、その元伊勢三社で、つまり伊勢に落ちつくその前に何回か引越ししてるんやな」
「えー、神様って引越しするもの?最初っからずっと伊勢でございます、って顔してたけど」と伊織が驚くと桐田さんは「それ、誰の顔ですか」と一蹴して解説を続ける。
「今でも元伊勢にはちゃんと内宮と外宮、それぞれあります。五十鈴川も流れてて」
「えー、元祖本家の伊勢神宮だ、それは行ってみたい」
「パワスポかどうかはわかりませんけどね…でも内宮の方はなかなか神秘的な感じだと思います」
「あの神社はわたしも好き」と児玉さんもいう。
「参道がちょっと長くて、十五分ぐらい坂道を登るから、どうやろか」と桐田さんは千里ちゃんをちらりと見て、続ける。
「でも上まで車で登れる道もたしかあったような」
「うん、あったと思う」と児玉さんが応え、そこで千里ちゃんが「できれば歩いて登ってみたいです」と言ったから話は決まった。

 一行は日本海をあとにして、元伊勢神社内宮との由来が伝わる皇大こうたい神社に向かった。社務所にあらかじめ電話で知らせておけば、本殿近くまで車で登ってもよいそうだ。どうぞご遠慮なくといわれたのでそのとおりにする。参道とは別にちゃんと車道もあって、そこを進めばまずは宮川の渓流の断崖にはりつくように鎮座する天岩戸神社にたどり着く。これも元伊勢三社のひとつだった。みなさんお参りしやすいよう、という妥協はまったくない厳しい立地なので離れた場所から眺める。ほかに参拝者はいない。 
 そこから急坂を一気に登ると日室ヶ岳ひむろがたけ遙拝所という看板があり、この場所から宮川ごしにのぞむ日室ヶ岳はもののみごとに三角形で、この山がそのまま御神体なのだった。



「やっぱり三角形の山って特別だよね」と伊織は感心する。
「奈良の三輪山もそうだし、富士山もだし」
「それにしたってここは三角がぴったりすぎる。ピラミッドみたい。すごいね」と千里ちゃんもおおいに感心している。
 そのすぐ先、山の中腹にぽかりと開けたような平地に皇大こうたい神社本殿はあった。鳥居も建物も古式ゆかしく、大きな木がそびえてもいるのだが、全体に明るくゆったりとしていて威圧感がない。どこかのどかな雰囲気すらある境内である。そしてやはり誰も見当たらない。
「こんないいところなのに、貸切だ」と一行ははりきって柏手を打った。
 せめて帰りだけでも、と千里ちゃん、伊織、児玉さんの三人は参道を歩いて下った。広くきちんと整備された道で、なんなく下りきれば小さいながらも門前町らしい町並みに入り、レトロな観光案内看板を眺めれば参拝者で賑わった時代がしのばれた。

「すっきりしたぞー、酔い覚ましにぴったりだった」と児玉さんはご機嫌で、千里ちゃんは「ついいろいろお願いしちゃった、あんまり欲張ったらだめなのにね」とにこにこしている。きっと千里ちゃんは自分の病気のこととかより、この世に残される人たちの今後についてお願いしたんだろうな、と伊織はぼんやり考えた。
 一行はふたたび車に乗り、外宮と伝えられる豊受大とゆけだい神社に向かった。こちらは集落の奥にある小さな丘の上で、石段はそう長くなくて簡単に登れた。何も知らずに来ればそんな謂れある古社とは思えない、さりげないたたずまいである。
「ここはお料理の神様だからね」と伊織は熱心に拝み、これで元伊勢三社コンプリートだ、とご機嫌であった。
「今度なつめちゃんに会ったら自慢しよ」
「あっ、なつめさん、わたしも会いたいな!」と千里ちゃんが反応する。
「まだ確定じゃないけど、近々遊びに来るかも、って」
「決まったら教えてね。絶対行くから」
「なつめちゃんもきっと千里ちゃんに会いたいと思ってるよ」
「楽しみ。心強いな」
 なつめちゃんは伊織のスピリチュアル仲間、というよりは師匠である。霊能力は高く、しかし人を脅したり操ったりしないよういつも注意深く話してくれるから、伊織はなつめちゃんのことをスピリチュアル・セラピストとして全幅の信頼を置き、同時に気のおけない友人でもあるのだった。千里ちゃんはなつめちゃんには一度会ったきりだが、似たような気持ちでいるのだろう。この旅行を終えた後にもまだ楽しみがひかえていると知ってうれしそうだ。実のところ、なつめちゃんの都合はまだはっきりしていないのだが、これはなんとしても早めに実現させよう。千里ちゃんもそれまでがんばって今の元気さを維持するのだぞ。
 何かにつけて「まあそのうちにね」と期限を設けずに未来を語ることを人はやりがちだが、それがいかに贅沢であるか、と伊織は思わずにはいられない。

 その夜も伊織と千里ちゃんは一緒のベッドに寝た。
「この方が、緊急の時すぐわかるし合理的だ」
「なんかこどもの頃、友達の家に泊まりに行った時みたい」
「ふとんの中でこっそりお菓子食べたりしたよね」
「うん、あれってなんであんなにおいしいんだろうね」
もそもそ話しているうちにふたりはすぐに眠気にのまれ、朝まで熟睡した。
 旅行三日目は昼前までお灸や鍼をうけつつ、だらだらすごした。この鍼灸民泊は必ずや大好評を得るに違いない、と伊織は確信するから、お茶を飲みつつ四人であれこれ計画を話し合うのもまた楽しい。それからふたりは、丁重に礼をのべて鍼灸院をあとにした。
 帰路も大過なく、伊織と千里ちゃんは無事に海なし県に帰り着くのだが、その途中なつめちゃんともラインで打ち合わせをして、近いうちに来てくれるということで話も決まった。
「次のクールが終わったあとの楽しみができた」と千里ちゃんは今後の投薬治療への意欲も湧いたようだ。
「あと、沖ばあちゃんの黒豆、煮てお礼に送るんだ。お正月に間に合わせないとね。初めて煮た時はいまいち失敗だったけど、今回はツヤピカぷっくりの黒豆を煮てみせる」
「うん。徹底指導してさしあげよう」
「よろしくお願いします」
千里ちゃんは目にいつもの茶目っ気を光らせながら、大げさにお辞儀をしてみせた。

(第6回に続きます)


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