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Clubhouseはもしかしたら世界を変える起爆剤になるかもしれない、という話

 最近流行りのClubhouseをちょっとやってみて思ったことをいくつか。

 まず最大の特徴は、肉声でしかやり取りできないことだろう。これは確かに新しい。ただ、それはSNSとして新しいのであって、リアルの世界では極めてオーソドックスだ。人と人が肉声で言葉を交わす。周りの人もそれを聞き、時々口を挟んだりする。昔の飲み屋や喫茶店では普通に起きていたことで、極めて当たり前の光景だったはずだ。しかし、いつからだろう。我々はその当たり前を失っていないだろうか。

 今、多くの人が、役割の仮面を被らないと話ができなくなったように見える。もちろん、飲み屋でも喫茶店でも道端でも、目の前の人に普通に話しかけて友達になれてしまうような人もいる。でもそれは多分少数派だ。大抵の人は知らない人にあまり気軽に話しかけたりしないし、関わろうとはしない。しかし、なぜか役割の中に入った時だけは、普通に話すことができる。お客と店員とか、会社の同僚とか、何かのサークルとか、いずれにしても、個人としてのつながりではなく、何らかの外的接着力がないとつながれない、つながってはいけないような暗黙の了解。本当は了解などないのだろうけど、いつの間にか皆がそうだからそれが当たり前という同調性が作り出す虚構。そしていつしか、役割という服を着る代わりに、役割ロボットの中に人が押し込められて顔が見えないような社会、そんな風に感じたことはないだろうか。

 Clubhouseはある意味、その外的接着力をSNSプラットフォームで作りながら、役割ロボットスーツを脱がせる効果があるように思える。まず、招待の段階で、ほぼ知り合いしか入らないので、それだけでサークル感がある。正にJoin the "club"(仲間に加わる)ということで、恐らくそれが名前の由来だろう。それから、Roomの構成が、管理者、スピーカー、オーディエンスという役割分担となっていて、オープンな部屋だと誰でもオーディエンスとして聞くことができるし、手を挙げて管理者に指名されれば、スピーカーとして話すこともできる。つまり、そういう構成と手順がコミュニケーションプロトコル(作法、形式)として組み込まれているので、それに乗って行動しやすい。だから、店で誰かにいきなり話しかけるよりは抵抗が少ない。かくして、何人かの飲み会の場に不特定多数の人が参加して聞き耳を立て、場合によっては手を上げて発言できるバーチャル居酒屋がオープンする。そして、リアルな世界でしにくくなった、とてもオーソドックスなコミュニケーションが、顔は見えないものの、Clubhouseでバーチャルに復活するというわけだ。

 一旦Clubhouseに入ると、後は極めて原始的なコミュニケーション手段しかない。肉声で言葉を話すだけ。文字メッセージ機能はもとより、コメント欄もない。だが、恐らくそれがコンセプトだ。Facebookやtwitterを使ったことのある人なら、限られた文字情報でのやりとりの難しさを痛感した人も多いだろう。匿名性も相まって、極めて足りない言葉を乱暴に投げ合って、理解どころか無用な対立を生み出すことも珍しくない。もちろんその結果、お互い相手のことは何も知らないまま、勝手に相手を断じて不毛に終わる。これがコミュニケーションと言えるだろうか?Clubhouseは、だから敢えてそれを排したのではないかと推測する。コメント欄がないから、オーディエンスが匿名に隠れて心ない言葉を書き込むことはないし、手を挙げて発言するのであれば、皆が聞いている中で肉声で言葉を発するわけで、その反応は全て自分に返ってくる。自然と言葉を選び、自分の発言に責任を持たざるを得ない。と言いつつ一方で、アーカイブ機能がないのは面白い。もしかしたらこれは、責任を持たせ過ぎない配慮だろうか。記録されないからここだけの本音の話がしやすくなる。当然オーディエンスにとってはより面白くなるが、多分その効果はそれだけではない。

 私はこれから、言葉が本当に重要な時代になると考えている。最近私は、ずっと虚構の話をしている。人は虚構を信じる力を手にして、大きく進歩してきた。まだ読んではいないが、ハラリも「サピエンス全史」でそんな話をしているらしい。同じことを言っているのかどうかはわからないが、私に言わせれば、あらゆる概念や法制度、国家もお金も善悪も愛も全て虚構だ。あるのは全て一つ一つの行動、事象のみで、それをどう解釈するかは人間の頭の中だけの話で、人間がいなければ存在もしない。そして私は、言葉もまた虚構だと思っている。というより、言葉の始まりが虚構の始まりだと考えている。言葉でいくら想念や感情、物や事象を表現したとしても、それは全く同じものではない。でも人間はそうやって物や感情に名前をつけ、抽象化した概念で話すことにより、共通理解の能力を手に入れた。その上に法律や契約、組織、国家、お金など、あらゆる仕組み(=虚構)を構築し、人類は発展してきたのだ。しかし今や、その虚構の世界が一人歩きし、仕組みに人が支配され、本末転倒が起きている。仕組みを変えなければならないのに、そのアイデアを交わすための言葉も空疎になり、実際の事象よりも概念のみの虚構で話すようになり、さらに立場によって本音が出なければ、我々の思い通りの世界など実現すべくもない。なぜなら、その立場自体、既存の仕組みの産物だからだ。

 私は今こそ、真実の言葉を多くの人が発する必要があると思う。真実の言葉とは、まずは本当の気持ちや考えを一切の忖度なしに表す言葉ということだ。立場とか役割に縛られず、他人がどう思うかなども一切気にせず、自分の本当の思いを口にする。この世は紛れもなく、人間の想念が作ってきた。ないものを想像し、創造する力で。それを伝え合って協力し合うベースを作ってきたのが言葉で、そこに本当の思いが宿らなければ、本当に望む世界など実現するわけがない。それから、言葉の粒度も大事になってくる。空疎な概念、例えば善悪や正しさなどで口泡を飛ばすのではなく、個々の事象に基づいた、特に自分の体験という一次情報に基づいた丁寧な言葉。恐らくそこにその人の真実があるし、より多くの人の真実を持ち寄って初めて、この複雑な世界を多面的に見ることができる。そこからようやく進む方向性が見えてくるのではないだろうか。

 Clubhouseの設計者が何をどこまで意図して設計したのかはわからないが、少なくとも少しだけ使った限りにおいて、そういうコミュニケーションがしやすいツールだと感じた。シェアもリツイートもないから、全て自分の中から出た言葉だ。極めて等身大だし、極めて人間的だ。もしここに多くの人が集い、立場や役割を脱ぎ捨て、純粋な個人として自分の思いを正直に発信し始めれば、それが起爆剤となって世界は変わり始めるかもしれない。なぜなら、それがずっと我々が世界を作ってきた方法だし、多分何らかの方法でそこを補完する必要がある。もちろん実際に会うのに越したことはないのだが、この状況下で、しかも移動なしに瞬時に肉声で言葉を伝えられるという利便性を考えれば、今後Clubhouseは押さえておいた方がいいかもしれない。私も上手な利用の仕方を考えたいと思う。

 最後に、少し脱線するが、これについてはどうしても書きたいのでお付き合い願いたい。Clubhouseで最初に思い出したラジオ番組についてだ。皆さんは昔、東京FMで毎週土曜の17時から放送していた「Suntory Saturday Waiting Bar 'Avanti'」という番組をご存知だろうか?1992年から2013年まで21年間続いた長寿番組だが、私の人生と共にあった番組と言っても過言ではない。ちょうど結婚した翌年に番組が始まり、子どもたち三人が次々に生まれ育っていく中、土曜に車で出かけると必ず聞いていた番組だ。これは元麻布にあるとされる架空のイタリアンレストラン「Avanti」のウェイティングバーで、紳士と呼ばれる常連客が、ゲストの話に聞き耳を立てるという設定で進行する番組で、様々な業界の様々な人たちが延べ5000人、「東京一の日常会話」としてそこでしか聞けない話を繰り広げた。そのゲストたちの話が本当に面白くて、番組が終わった時は本当に悲しかった。何がそんなに面白かったのか、今になって思い返してみると、やはりとても本質的な人間の人間に対する興味だったのではないかと思う。そのエッセンスがClubhouseにもあるような気がして、もしかしたらそれはClubhouseというプラットフォームにあるのではなく、その中でRoomを作る人、話し手にあるのかもしれないが、今後もしClubhouseを積極的に活用するようになったら、この愛聴番組は常に頭の隅に置いておこうと思う。

ちなみに、番組終了してから7年以上も経つが、一部をまだポッドキャストで聞くことができる。毎回の抜粋なので短いが(元の番組は55分)、全部で365回分もあるので、ご興味のある方は以下から是非ご聴取いただきたい。

大西つねきホームページはこちら → http://www.tsune0024.jp/ YouTube動画も多数配信中 → https://www.youtube.com/user/tsune0024ch


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