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小枝散りゆく、つゆ知らず

既視感。
 昔、私はこの近くに住んでいたことがあった気がする。なんとなく河の感じや道に見覚えがある。朧げなのは10年も前の記憶だからで、小学校に上がる前だった。まだ母と暮らしていたときだ。
 この街は交通量の多い、広い大通りよりもうんと幅の広い運河が流れている。河は黒々としていてうねるように流れている。少し潮のニオイが混ざった運河特有の匂いがする。このニオイを嗅ぐのが日常になって暫く経つ。ここでは旧来、船と呼ばれている船の形とはだいぶ違う小さいビル群のような船が河を流れ荷物を運んでいる、立方体のような四角い箱。昔ここには河を越えるようにモノレールと呼ばれる電車が走っていた。人の行き交えを助ける飛行場とターミナル駅を繋いでいた。今はその背の高いレールだけが錆びれたまま、残っている。背の高いガラス張りの建物や迫力のあるコンクリートの建物がずらっと並んでいる。もう車の通っていない高速道路も空を覆うように建っている。空が狭く人も通っていない。今はこの街がどんな名前だったか、どんな街だったか知る手段はない。記憶はふわふわとして頼りない。
でも名前がない街というのは寂しい感じがする。河も建物も冷たく無機質な感じがして歩いていて自分まで無機質なものになったような、いっそのこと自分で付けてしまおうかなと思う。どんな名前がいいかなぁと考えてると大きな交差点にでた。この時間帯にはめずらしく人が何人かいる。彼らは車はもう通ってないのにみんな青信号を待っている。もともと大きな通りだから習慣付いたものだ。なんとなく私も真似をする。仕事が終わったので今から配給所に向かい、食料や生活品を受け取り家へ帰る。今日はとても肉体を酷使する仕事内容だったので、足取りが重い。ゆっくりとしたペースで配給所まで向かう。なんだかとても、疲れてしまった。


用事が終わったわたしは、小さな部屋のアパートメントに戻る。大きくて白くてだだっ広い殺風景な建物だ。外の通りからアパートを眺めると鉄格子のついた四角い窓がずらっと並んでいて威圧感がある。中に入って7階まで螺旋階段で登るとわたしの部屋まで辿り着く。ふらふらした足取りで、鉄のドアの鍵を開ける。靴を脱いで配給された食料を床に置く。重かったから疲れた。大きく伸びをしてうぅといった声をあげる。クタクタになった身体をそのままにベッドに預ける。天井をぼんやり見ていたあと、わたしは眠りについた。分かってはいたけど、変な時間に起きてしまった。配給された食料、乾いたパンとクッキー、牛乳を口に放り込む。本当はおばあちゃん作ってくれたスープが食べたい。お母さんが作ってくれたシーフードグラタンが食べたい。そんなことを考えても仕方がない。お腹が空いてるから機械的なリズムで手を動かして口へ運んでいく。それが終わったら、簡単なシャワーを浴びてまた眠る。きっと眠れないのだけど…

朝目覚めた。昨日は力仕事をしたので、筋肉痛がして節々が痛い。起き上がって昨日の夜とあまり変わらない、食事をとる。起きた後の乾いた口ではパンに水分を奪われてモソモソとする。緩い不快感。窓を開けて換気をする。今日は日差しが強く、春風が吹いている。風に撫でられて、少し気分が良くなった。今日は週に2日しかないお休みの日なので、外に出掛けようと思う。家に居ても仕方ないしね。服に着替えて靴紐を縛って水筒・お弁当を袋に入れて鞄にしまう。鏡で簡単に姿を確認して、靴紐を縛って外に出る。朝の光に目が眩む。目の前に手を翳し、ぐるぐると階段を降りていく。通りに出た。大きな道路なのでやっぱり人がいなく道は閑散としている。

 わたしはこの街で廃ビルの清掃をしている。今日は都市緑地と呼ばれるところに行っていた。そこは一周するのに2時間ほどかかるほど広く、世界中の様々な植物が植えられている。以前、街路樹だった植物、ガーデニングで育ててたであろう植物、雑草(ナズナやすみれ、イネ科の植物など)たち。みんなそこに集められた。アロエや金木犀やツツジなど街中でよくみた植物がよく並ぶ。3年前、ニュースでやっていた。街の景観のために街中に植物を植えることは非人道的だから、らしい。街で見ていた頃より無理のある剪定が行われていない彼らは、確かに痛々しい姿を見せることなく伸び伸びとしているように見えた。

 小道をゆっくり歩いていると、木と木の隙間に廃ビルが目に入った。ふいに、ある叫び声が頭をよぎった。曇天の空に女性の高い甲高い声が響いたのだった。
 あの日、わたしはいつものように見に行ったのだ。

 高層ビルでは空を飛ぶ鳥がガラス張りの窓に気付かずぶつかって落ちてしまうことがある。それを掃除するのはこれといって特別なことではなく、わたしはまあいつものとおり鳩か何かだろうと呑気に構えていた。
 落ちていたのは髪の長い女性だった。海を泳ぐ海藻のように黒い髪の毛乱れていて飛び散ったばかり血液は少しずつ広がっていた。
肉片や血まみれで赤く染まった髪の毛、剥き出しになった内臓が赤いグレープフルーツをギュッと握り潰したみたいなものが、バラバラと落ちていた。

 なかで何か恐ろしいことが起こっているんだろうなということは私でも分かった。咄嗟の判断でこの場から去った、わたしは正しかったと言える。

異変
 ――最初は隕石が降ってくるからと言われた。氷河期がきて人はもうここには住めないと。次は地震が起きてこの小さくて大きな島が沈んでしまうからと言われた。何が本当なのかわからない。ただ毎日テレビを付けては消して流れていくニュースをみていた。齧るように情報を捉えようとしたけど、本当に起きていることは何もわからなかった。とにかくお金持ちが消えた。街から木も消えた。お母さんが消えた理由も何一つわからない。わたしは何もわからない街でただ掃除をしている。世界の秘密を知ったところでわたしはとても無力なのだ。知りたいことは沢山あった。救いたかった命もいっぱい、もう名前も忘れてしまった人もいるけれど……あんなに懸命に生きていたのにもういなくなってしまった。声や姿形を生きているわたしたちが忘れてしまったら、もうあの人たちはどこにもいない。名前のない街みたいに、――

 翌朝見に行ったときそれは、キレイに片付いていた。そんなおぞましい光景をみたあとも、何も起こらない日常を続けていくと記憶とは対外薄れていくもので、わたしは明日も乾いたパンを食べ廃ビルの清掃をし眠りにつく。ふとぼんやり今日のような空を雲が覆う天気の日に緩い罪悪感がわたしを襲うのだ。





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