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先生は ”先生” になったらダメなんだ

教員時代に編み出した完全自己流「いい先生」の見分け方。

それは

自分のことを「先生」と言わない先生。


授業中や
特に大勢の生徒の前で話をする集会みたいな改まった場面になると
「先生は〜だと思いますが,皆さんはどうですか?」
みたいに一人称が自然と私から先生に変わってしまう人が多かった。

ちなみにこれはあくまで中学校の話なので,
もしかすると小学校では「お友だち感覚で関わろうとする児童」
に向けてきちんと線引きをする意味で
「先生は」
と敢えて一人称を先生にしているという場合もあるのかもしれない。
(そうであって欲しい)

教員として大勢の生徒と関わる時
生徒に心を開いて欲しいと思うなら
まず自分が心を開かなければ絶対に相手は開かない。

「心を開く」というのはよく耳にする表現ではあるものの
「自己開示」などという美しい表現よりも
身につけているものを全て脱ぎ捨てて裸になる感じ
というのがしっくりくる。
「裸になる」というのは心のハナシ。
でもって
実はコレ物理的に服を脱ぐのに匹敵するほど
相当な恥ずかしさを伴う行為だ。

どう恥ずかしいか・・・
というのはなかなか言語化できないのだけれど
要するに
カッコ悪い自分とか
人には見られたくない自分の一部
みたいなものを
生徒の前で晒すようなことに近いと思う。

自分で自覚している弱みを
「それって強みになってませんか?」
と思わせるほどポジティブに語る人もいるけど
子どもはその辺かなり敏感なので
彼らを騙すことは相当難しい(笑)
そしてこれをしないことには絶対に子どもは心開かない。

特に指導困難校と呼ばれるような「やんちゃ気味」の生徒が多い学校なんかでは必須かも。
こういう学校に教員として赴任していつまでもカッコつけてたりすると
あっという間に「強制的に」恥ずかしい思いをさせられる(笑)
そこで気が付く教員はいいけれど
逆に意固地になってしまったりすると
あっという間に見切られて生徒の心は離れていく。

私は教員なりたての頃
思いっきり「先生」になった状態で
「やる気ないなら帰りなさい!!」
とか怒鳴っちゃって
秒で帰られた挙句
その生徒たちが集団で校長室に押しかけ
「アイツ(私のこと)クビにしてください!」
と直談判され
翌日朝から生徒の前で謝罪会見を要求されて
深々と頭を下げて陳謝(笑)
子どもと本音でやり取りできるようになったのはそこからだった。


一人称を「先生」とすることは
裸の自分に一枚「先生」という服を着せる行為。

「今から君たちに話すことは
『私』の言葉ではなく
『先生』になった『私』からお伝えする言葉ですからね〜」
と見えない枕詞をつけて話す言葉が
果たしてどれほど生徒の心に刺さるのか。

多分あんまり刺さらない。
刺さったフリするのが上手な賢い生徒が相手だと
なかなか気づかないかもしれないけど。

昨日
3月に退職した学校で担任していた生徒と
そのお母さんから手紙をいただいた。
お母さんからの手紙にはこんなことが書かれていた。

「建前や立場で語らず,本当に大切なことは何か,人はどうやって生きていくのかを自分の言葉や姿勢で伝えてくださったから,先生の言葉は我が子に響いていたのではないかと感じています」

教員生活12年間
常に一人称は「私」だった。
その自分の感覚は間違っていなかったと改めて。
今後も一生心の支えにしていけるような
宝物にしたくなるこの言葉。
本当にありがたい。

そしてこれを書きながら
我が子に話しかける時にほぼ100%
「ママ」か「お母さん」
が一人称になってる私。

そうか
だから息子には私の言葉がまっったく刺さってなかったのか…。




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