四番目の呼吸

ヨーガスートラにはプラーナヤマについて、以下の記述がある。

2.51. 内的な呼吸と外的な呼吸の間の停止時に生じる四番目のものがある。
2.52. その結果、(内なる)光を覆っていたヴェールが破壊される。
2.53. そして、心が集中することに適するようになる。

「パタンジャリとシッダのクリヤーヨーガスートラ」

この四番目のものとはなんだろうか?

呼吸には、吸気、呼気、停止の三つのプロセスがある。そして、その背後にあるのが、四番目である。
それは、呼吸の三つのプロセスに囚われていては見つからない。そのプロセスを超えなくてはいけない。

呼吸は意図しなくても、身体が勝手にしている。それが、身体が必要としている、最適な、自然な呼吸だ。
呼吸に気づこうとするとき、呼吸へ意識を向けると、呼吸が意図的にならざるを得ない。
そして、意図するとき、呼吸(身体)と自己同一化する。
この自己同一化を離れることが、四番目とも言える。
そのとき、自然な呼吸に気づくことができるようになる。

身体との自己同一化をやめたとき、次にエネルギーとの自己同一化が始まる。
そして、このエネルギーが四番目のものとなる。

エネルギーとはなにか?

物質と精神の中間のものであり、精神が物質を形成する媒体、物質が精神に影響を与えるときの媒介となるものだ。

四番目とは、エーテル体からアストラル体(エネルギー)への移行とも言えるだろう。

ちなみに、これはスピリチュアルで言えば、3次元的物質から4次元的エネルギーへのアセンションとも言える。

仏教での解釈も見ていこう。

「吸」とは、入息である。出息ではない。「呼」とは、出息である。入息ではない。入息を所以に、現起としての気づきがある。出息を所以に、現起としての気づきがある。彼が、入息するなら、彼に、〔気づきが〕現起する。彼が、出息するなら、彼に、〔気づきが〕現起する。

「小部経典、無礙解道」

とても当たり前のことのようだが、これが意味することを、ここでは触れないが前後の文脈から読み取ると以下のこととなる。

入息によって気づきが生じ、出息によって気づきが生じる。
入息と出息は、別々のものだが、気づきとして見れば、同じもの。

つまり、入息と出息を部分的に見ると、対象が切り替わるため、気づきが途切れ途切れになる。
しかし、入息と出息を全体的な一つの呼吸として見ると、気づきは連続し、集中が容易になる。

入息(→気づき)→出息(→気づき)→から、
気づき→気づき→の気づきの連続へ。

経典の中では、入息と出息による気づきと、気づきによる「気づき」は区別されることに注意しよう。
それが、入息と出息と気づきの三つのプロセスを超えた、四番目の「気づき」となる。
それが、「受」である精神的感覚である。

瞑想としてのプロセスはこちら。

さらには、呼吸の全体として、四つの呼吸を見ていこう。

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