「無我と真我の違い」仏教とヴェーダーンダ哲学

低次の私と、高次の「私」という概念がある。
そして、この低次の私(私とあなた)とは、身体と同一化しているものである。
さらに、高次の「私」には、二つのタイプがある。
一つは、すべて有る「私」。
もう一つは、すべて無い「私」。

「私はすべてである」が真我的であり、「すべてがない」が無我的なものだろう。

そうして、低次の有ると無い、高次のすべて有るとすべて無い。
これらすべてを捨て去るのが中道であり、解脱となる。

つまり、真我と無我はプロセスにおいては異なるように見えるかもしれないが、真には同じことだと言える。

「私」を一つの実体として見ているかぎり、ハートの中に天国や解脱への欲望は起こる。
このように、「私」が残っているかぎり、人生から不幸が消えることはない。この「私」という観念は、真我の知識によってしか取り除くことはできないのだ。

それでも、「私は全宇宙と一つだ。私から離れて存在するものはない」という感覚を与える高次の「私」が、光明を得た人の理解だ。
別のタイプの「私」とは、「『私』は自然の中の原子であり、非常に霊妙な、宇宙のすべてとは異なる独立したものだ」と感じるときのものだ。これもまた解脱に導くものであることに異議はない。

だが、はじめに説明した分離した実体としての「私」は、身体と自己を同一視している。これは断固として放棄されなければならない。
高次の「私」の形なき形に絶え間なく瞑想することで、低次の「私」の形は消去されるのだ。

「私はすべてだ」や「私は非常に霊妙な独立した存在だ」という感覚を絶えず抱くことで、低次の「私」を抑え、高次の「私」の姿にとどまらなければならない。
そうすれば、いずれは高次の「私」の形さえ完全に放棄されることだろう。

「ヨーガ・ヴァーシシュタ」

あなたが「この世界と自分は実在だ」と信じたいなら信じるがいい。そして、ただ真我の中に揺るぎなく確立されなさい。

もしあなたが世界の現れを実在と非実在の両方だと考えるなら、この無常の世界にふさわしい態度を培いなさい。

もしあなたが世界の現れを非実在だと信じるなら、そのときは無限の意識の中に揺るぎなく確立されなさい。

「ヨーガ・ヴァーシシュタ」

「私は行為者ではない。私は存在しない」と感じなさい。
あるいは、「私は行為者だ。私はすべてだ」と感じるがいい。
あるいは、「私は誰か」と尋ねることで真我の本性を探究し、「私は私に属するものではない」ことを悟るがいい。

「ヨーガ・ヴァーシシュタ」

カッチャーヤナよ、
この世間の人々は多くは二つの立場に依拠している。
それはすなわち有と無とである。
もしも人が正しい智慧を以て世間(世の人々)の現れ出ることを如実に観ずるならば、世間において無はあり得ない。
また人が正しい智慧を以て、世間の消滅を如実に観ずるならば、世間において有はあり得ない。

カッチャーヤナよ、
「あらゆるものが有る」というならば、これは一つの極端の説である。
「あらゆるものが無い」というならば、これも第二の極端の説である。
人格を完成した人は、この両極端説に近づかないで、中(道)によって法をとくのである。

「マッジマ・ニカーヤ」

世間で生きる人にとっては、無我は理解し得ない。世間に依存して、その中に囚われているからだ。
世間で生きる人の有るもあり得ない。世間の人にとっての私とは身体だから。
つまり、世間の(低次の)私は成り立たない。

「あらゆるものが有る」とは、涅槃に対しての確信であろう。
「あらゆるものが無い」は、無常や無我への智慧だろう。
それらは、人格の完成までは、筏の役割を果たすのだろう。
そうして、最後にはすべてを捨てていく。

ちなみに、仏教での無我と非我との混同は、それぞれに注意が必要になる。
無我が行き過ぎると涅槃(実在)への否定や無関心に陥り、非我が行き過ぎるとどこかに我を残してしまう。
最終的には、無我でも非我でもなく、中道であり、これらもまたプロセスの一部である。

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