「生きていること」より大切なもののために、ぼくらは生きている

内容的にはこのエントリーの続き。

誰もが違う価値観をもって生きているんだから、無理にわかりあおうとするのではなく、違う価値観を持っている相手のことを認めあい、尊重しようよ、という話。

ちょうど第5波まっただなかの時期、とても心に残った記事があった。

この時期めちゃめちゃ叩かれていたオリンピックやフジロックに対して自分が抱いていた感情はまさにこれ。

確かに感染者を増やさないためにみんなが協力することは必要だと思う、でも、そのために、すべてを犠牲にする必要があるのか?
そして、それを自分だけでなく他人にも強制する権利があるのだろうか?

例として出されているエホバの証人みたいな例は、小さいことで言えば、実はたくさんある。
例えば、喫煙が健康を害することは誰でも知っている。健康を最も重視する観点からすれば、タバコなんか百害あって一利なしと言える。しかし、それでもタバコは合法で、愛煙家も健康を害することをわかっていながら吸っているわけだ。
登山家が危険な山にチャレンジして、実際に命を落としたりするのも、同じ志を持つ人たち以外は共感できないことだろう。でも、彼らは命をかけて山に登る。
そこまで危険なことでなくても、例えば飛行機に乗って海外旅行に行く、ということだって、飛行機に乗るとそれだけ宇宙からの放射線に曝露されることになるし、飛行機事故のリスクもあるし、旅行先で事件や事故に巻き込まれるリスクもそれなりに上がる。だから、これだって、長生きすることを至上命題とするなら、やらない方がいい、ということになる。

世の中にはいろいろな人がいるから、体にいいとされることをやるのが趣味で、健康によくないことは一切しない、という人もいるのだろうが、多くの人は、あまり体によくないことを知りつつ、タバコを吸ったり、酒を飲みすぎたり、間食したりするし、時には車やバイクを法定以上の速度で走らせたり、ドアがしまりそうな電車にかけこんだりしている。
つまり、多くの人は、極端に言えば、健康や長生き以上に大事にしていることがあるわけだ。

自分はいま、またライブを自粛せざるを得ない状況になっているけど、もし仮に自分が不治の病で余命半年の宣告を受けているとかだったら、仕事なんか辞めて毎日ライブに行っていると思う。それで仮に寿命を縮めたとしても本望だ。
というか、以前も書いたけど、人間は必ず死ぬわけだから、みんな余命宣告を受けているようなものだ。いつか必ず死ぬのに、やりたいこともやらないで我慢して生きていて、なんの意味があるの?

個人的には、「生きている」ということ自体にはあまり意味はないと思っている。生きていることはただの手段であり、自分がやりたいことをやるということ、それこそが生きる目的だ。やりたいことをやるためには、当たり前だけど生きていないとできないので、そのための手段として「生きている」、それにすぎない。

だから、自分としては、やりたいことを我慢して、ただ「生きている」という状態には、何の魅力も感じない。
中村一義さんの名曲「キャノンボール」の歌詞、「ぼくは死ぬように生きていたくはない」。これがどのような意味で書かれているかは彼にしかわからないけど、自分はそう解釈している。


ただ、自分にとっては自分が生きていることに大した意味はないけど、自分の近しい人にとっては、自分が生きていることは意味があるのだろうと思う。そして、自分は自分の家族や友人たちに、なるべく幸せでいてほしいと願っている。それも自分の目的のひとつだ。だから、自分のやりたいことをいろいろ天秤にかけた結果、自分の意志で、おとなしく自粛して県外に出ないという選択肢を選んでいる。

これはあくまで自分の価値観に基づいた、自分の判断、そして行動だ。
誰にも共感してもらえなくてもいいし、自分も誰にも強制する気はない。

そして、ほかの誰かが、違う価値観のもとに判断し、行動したとして、それを咎めたり、やめさせたりする権利はないと思っている。

人間は、無意識に、自分の価値観というものさしで他人の行動も測ろうとしてしまう。それを意識しておかないと、自分の価値観に合わない行動をとる人間を、「おかしい」「常識がない」「頭が悪い」などと決めつけてしまうことに繋がる。

そして、これも無意識に、人間は自分が好きなものには甘く、自分が興味ないものに対しては冷たい。
去年、オリンピック開催を散々批判していた人が、フジロックには何も言わなかったり、ロッキン中止を批判していたりするのをしばしば見た。「偉い人たちが決めることが何でもとにかく不満」という意味では一貫しているのかもしれないが、論理的には矛盾している。
多少でも想像力があれば、「自分が大好きなRIJFが中止になってこれだけつらいんだから、アスリートやスポーツが好きな人たちはオリンピックがもし中止になっていたらとてもつらかっただろうな」と考えられるはずだ。

いまの中高生や大学生は本当に気の毒だ。入学してまもなく世の中がこんなことになって、ほぼすべての行事が中止、修学旅行も中止になったりしている。中学校の修学旅行、高校の修学旅行は、それぞれ一生に一度の思い出になるはずだったのに。成人式だって一生に一度の晴れ舞台なのに。しかも、彼らは若いし、ワクチンも接種していれば、どう考えても重症化することはないのに、自分以外の人間のために、大切な機会を奪われているのだ。

自分の敬愛してやまないアイドルのみなさんもそう。人生の中で、アイドルとして活動できる時期は限られているのに、もう2年もこんな状況が続いて、大なり小なり活動を制限されてしまっている。
そして、ふつうに生活していても感染するリスクがあるような状況下だから、やりすぎなくらい様々な対策を講じていたって、どうしても感染してしまうことはある。以前より何倍も苦労して活動しているなかで、たまたま感染してしまい、謝ったり落ち込んだりしている推しを見ると本当にいたたまれない。結果が伴わなかったとしても、やるべきことをやったうえでのことなら、胸を張っていてほしいと思うけど、「迷惑をかけちゃったな」という当人の気持ちも痛いほど理解できるし…かける言葉が見つからない。ただ、推しの心身の健康が少しでも早く回復することを祈ることしかできない。

そして、言う必要のないことをあれこれ言ってくる心ない人間もきっといるだろう。批判や中傷をしてくる人間はたいていファンではなくて、そのジャンルに興味のない人たちだから、本当は聞く必要もないんだけど、それでも、耳や目に入る言葉が当人たちを傷つけることもあるだろうなと思う。

その人がいちばん大切にしていること、人生をかけてやっていることを、他人がとやかく言う権利なんてあるわけがない。ひとりの人間が、たくさん考えて、それでもやる(もしくは、やらない)と決めた決断はとても重いものだし、もしそれがうまくいかなかったとしても、自分で決めた結論だからこそ受け入れられる。
だから、自分は推しが決めたすべてのことを応援するし、無条件で肯定する。ライブをすることも、しないことも、活動をお休みすることも、すべて正しい。だって、正しさなんて当人たちの中にしかないんだから。そして、自分にとっても、とても大切な推したちが幸せでいてくれることが願いのすべてだから。

やさしさとは想像力だ。自分が思う「やさしさ」を相手に押し付ける行為がやさしさではない。相手が持つ価値観を想像し、その価値観に基づいて何を大切にしているのかを想像し、尊重すること、それこそがやさしさと呼ぶべきものだと思う。

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