Memento mori.

自死に対する自分の考えはこのエントリーにだいたい書いた。

そこでも記載した、「どうせ死んでしまうのに、なぜいま死んではいけないのか?」という本の一部を引用したい。

生きる理由と死ぬ理由

こうして、「なぜ自殺してはいけないのか」という問いを深刻にとらえない者、いや嫌悪する者さえこの地上におびただしく生息していることを、私は知っている。以上の考察を経て、人類はおおよそ三種類に分類されるように思われる。

(1)この問いにからめとられている者
(2)この問いに無関心な者
(3)この問いを嫌悪する者

一方で、ある男(女)がこの人生が「生きるに値しない」と結論づけても、ただちに自殺するわけではない。他方、「生きるに値する」と信じている者もある日ふと自殺する。
個々の自殺の真の原因は最後まで分からない。それは、個々の自殺しない原因が最後まで分からないことに呼応している。
読者諸賢は「あなたは、なぜ自殺しないで今日も生きているのか」と私が問うたら、まともに答えられるであろうか。いかなる答えを提起しても、それが明確な回答であればあるほど、嘘くささが残るのではないだろうか。つまり、生き続けることには見渡せないほど広範で錯綜した原因があるのに、自殺には、何らかの明確な一つあるいは数個の原因があるはずだ、という思い込みそのものがおかしいのだ。いかなる人の自殺に関しても、やはり広範で錯綜した原因が根を張っているはずである。
顰蹙を買うことを覚悟であえて言えば、幼い子供や青年が難病や自己や災害で死ぬと、決まって親や恋人や友人は「これから楽しいことがたくさんあったはずなのに」と嘆く。だが、彼(女)の前途に開ける人生には楽しいことばかりではなく、苦しいことも限りなくあること、いやむしろはるかに多いことは誰でも知っている。結婚式の直前に娘が殺害されたとき、「花嫁衣装を着せてやりたかった」と泣き崩れる母親の気持ちは心情的にわかるが、花嫁衣装を着た後、彼女にどんな不幸が待ち受けているか誰にも予言できない。
つまり、われわれは人生が楽しいから生きているわけではない。自殺したいものは楽しいはずの人生なのに自ら断とうとする誤りに陥っているわけではない。このことは「明晰かつ判明」な事実である。このことは、人生が楽しいことをいくら説得しても、一般に自殺しようとする者を思いとどまらせることができないことからもわかる。人生がある程度楽しいことはわかっている。しかし、私の人生はその楽しいはずのことも含めて、もううんざりなのだ。
しかし、多くの人はこういう苦悩をいかに理解しようとしないことだろうか。死刑囚が自殺しようとするとき、末期がんの患者やアルツハイマー病の患者が自殺を試みるとき、多くの人は同情するであろう。自分に残された人生には、もはや苦しみしか待っていないのに、残りのわずかな人生をあえぎあえぎ走りぬいたとしても、その後に待ち構えているのは、ただ死だけである。ならば、いま死んでなぜ悪いのだろうか。なぜ、私は苦しみぬいてから死ななければならないのだろうか。
われわれは、こういう苦しみには共感する。だが、「生きることがつらいから、苦しいから、虚しいから」という理由で自殺を願う青年に対しては、断じて共感しようとしない。だが、彼(女)も、じつは先の人々とごく近いところに位置しているのである。あとの数十年を苦しみあえぎながら生き抜いても、そのあとに待ち構えているのは、ただ死だけである。ならば、いま死んでなぜ悪いのだろうか。

「どうせ死んでしまうのに、なぜいま死んではいけないのか?」中島義道 より引用


死が不幸であるのは残された人たちにとってだけで、当人がそうであるかどうかは当人にしかわからない。
そして、生きていることがどのくらいつらいことであるかも、人それぞれ違うのであって、自分の物差しで測ることはできない。

生き方を選択する自由が認められるなら、その生き方の終わり方を選択する自由だってそれに含まれるはず。

自分は今は能動的な死を希望しないし、当然それを勧めるつもりもないけど、死に魅力を感じている人に対して、それを強く止めたり、その思いを否定したりは、自分は絶対にしない。


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