誇り高きアイドル

星の数ほどいるアイドルの、そのうちのたったひとりが、自分にとって特別な推しになる瞬間って、いつも奇跡のようで、特別で、尊い。

推しが好きな理由なんていくらでも考えつくけど、最初に好きになる瞬間は、きっと理屈ではないのだろうと思う。それこそ恋と同じように。


自分はアイドルの何が好きなんだろうって、最近考える。

楽曲が好き、歌声が好き、パフォーマンスが好き、それがとても大きいのはわかる。でも、今はもう、きっとそれだけではない。

ガチ恋勢ではないけど外見も好き。でも、外見で好きになるというより、好きになった人の外見を好きになるという方が大きい気がする。

その人の中身が好き。もしかしたら、今はそれがいちばん大きいのかもしれない。
オマエがアイドルの何を知ってるんだよ、っていうテンプレみたいな嘲笑は、正しいけど、正しくない。
確かに、自分は、こんなにも大好きな人の私生活を、実のところ何も知らない。その苦労も、涙も、悲しみも、ほとんど知ることができない。
でも、好きな人がたまに伝えてくれる、気持ちの欠片が含まれた言葉には、すべてが入っているわけではないけど、少なくとも嘘は絶対にない。これは断言できる。
そして、その欠片を受け止めて、少しずつ形作られたものが、自分にとっての推しの中身だから、もちろん全部ではないけど、偽りはひとつもないはず。

そしてその、欠片を集めて作った、自分の中だけに存在する好きな人の内面から、その苦労や、涙や、悲しみを想う。
もちろん、それは正確なものではない。もしかしたら全然見当違いかもしれないし、見えていない別の苦悩だってきっとある。
でも、その見えていない、知る由もない部分も含めて、好きな人のことを想い、尊敬し、もっと好きになっていく。

あまり意識していなかったけど、今はこれも曲やライブと同じくらい自分の中で大きいのかもしれないって、最近気づいた。



昨日、大好きな、本当に大好きな、特別な存在だった推しグループから、現メンバー全員の脱退と現体制終了の告知があった。



ヨルシカの「盗作」という曲のなかに、

音を聞くことは気持ちがいい 聞くだけなら努力もいらない

という歌詞がある。

解釈は人それぞれだと思うけど、表現者でなく、ただのファン、もっといえばただの消費者である自分にとって、自分の好きな表現と出会えることや、その表現に触れられることはとても幸せなことであり、当たり前じゃないってことを忘れてはいけない、ということを思い出させてくれる歌詞。

きっとアイドルのみなさんは「そんなことない」って言ってくれると思うけど、自戒をこめて言うなら、自分は、アイドルヲタクとして、何の努力もせず、ただ、推しの夢にタダ乗りをしているだけの存在だ。
足しげく現場に通ったり、特典会に参加したりを継続しているヲタクのみなさんは本当にすごいと思うし、その人たちは推しの夢をいっしょに支えてると言っても過言ではないと思うけど、自分はほとんど現場に行けていないし、お世辞にも貢献しているとは言えない。

さらに言うと、推しのみなさんに元気や勇気をもらってるのは間違いないけど、じゃあ、自分がなにか夢に向かってがんばってるのか、というと、正直なにもがんばっていない。ただ、日常の仕事や家事、育児をこなしているだけだ。それはそれでがんばっていると言えなくもないかもしれないけど、自分自身が、覚悟を持って、目標や夢に向かってチャレンジすることがあるかと聞かれたら、それはないと言わざるを得ない。
自分にそういう覚悟がないから、夢に向かってがんばっている推したちを応援することで、推しの夢を自分の夢と同一にして、一喜一憂している。その夢に対して、自分は何の努力もしていないのに。これがタダ乗りじゃなくて何なんだ。

(…これはあくまで、自分に対して、絶対に調子に乗るなよってことと、いつも推しへの感謝と尊敬を忘れるなよ、という戒めのために、忘れないようにしているだけです。自分以外の他者に対しての言葉ではないし、あくまで自分に対して言っている言葉なのですが、嫌な気持ちになった方がいたら申し訳ありません)


そんな、いいとこどりしてるだけの自分には、推しの決めたことに対してあれこれ言う資格などないと思っているし、それ以上に、自分が大好きで尊敬している人が一生懸命考えて出した結論は、推しの中での正解に決まっているのだから、あれこれ言う気もそもそもない。
大好きな推しの気持ちを推しはかるだけで胸が苦しくなる。つらかっただろうなって思うとそれだけで泣きそうになる。決まってから発表するまでだってどれだけつらかっただろう。知らぬこととはいえ、期待が不用意な言葉となって推しを傷つけたり負担をかけてしまったりしたかもしれない、そう思うと申し訳ない気持ちにもなる。


ということで、推しの決めたことを全面的に肯定するし、全力で支持したい。そして、新しい道に進む推しのことも、今までと同じ気持ちで応援したい。応援させてもらえるなら、アイドルでなくなっても推させてもらえるなら、だけど。


ただ、これは本当に勝手な、個人的な感情だけど、大好きだったものがなくなったり、形が変わってしまったりすることは、ファンとしてはやっぱりとてもさみしい。悲しくもあるけど、悲しいよりさみしいの方がより適切な気がする。I miss youというやつかな。

さっきの自戒の話で言うなら、自分にはさみしがったり悲しがったりする権利もないのかもしれない。というか、権利云々は本当はどうでもよくて、さみしがったり悲しがったりする反応は、たくさん悩みぬいてその結論を出した推しを、よけいに傷つけてしまう気がして、あまり表出しない方がよいのかな、と昨日は思ったりした。


でも、こんなにショックを受けたりさみしくてやりきれない気持ちになったりするのは、それだけ自分が本当に心から推しを大好きだったからだよね。
自分が広く浅く推すDD気質なのって実は傷つきたくないというリスク回避の逃げでもあると思うんだけど、そんな自分がここまでショックを受けるくらい推していたことと、そんなにまで推させてくれた推しのことを、もっと誇ってもいいんじゃないか、と、今朝になって思い直した。


正直、めちゃめちゃさみしいよ。浅い眠りの中で、いろんなことを考えて、起きたら夢だったらいいのにって何度も思った。
ライブもっと観たかった。観ておけばよかった。後悔したって仕方ないのにやっぱり考えてしまう。あの、呼吸するのも忘れそうな美しいステージを、胸が苦しくなるくらい感情が伝わってくるパフォーマンスを。

でも、自分は欲張りだから、あと1回観たからといって、それで満足するというものでもない気もする。もっと観たくなるだけかもしれない。


2021年12月21日、下北沢251で観た、最初で最後のライブ。
やっと観ることができた感動、配信では観ていたけど目の前で観るすごさに圧倒されたこと、ふたりのダンスや表情があまりにきれいだったこと、観ていた客席の位置とか前の人が美味しい曖昧さんのTシャツを着てたことまで、よく覚えてる。
はじめてご挨拶するのにめっちゃドキドキしながら特典会の列に並んでいたことも、前に並んでたのがよく写真をお見かけするTOの方だったことも、名乗った時にへちゃんが会場中に響き渡る大声でびっくりして喜んでくれたことも、さちゃんもとっても喜んでくれて、福袋の動画を撮り直すよって言ってくれたことも、全部、宝物みたいな自分の記憶。

初めてのネットサイン会で、新参の自分なんかのアカウントを知っていてくれて、「近い界隈にいたよ」って言ってくれてめちゃめちゃびっくりしたしうれしかったこととか、はじめてリプをもらってめちゃテンションあがったこととか。
オンラインチェキがいつもとてもかわいくデコレーションされてることも、自分のツイートをいつも見てくれてて、仕事や家族のことまで知ってくれていることも。
書いてくれるメッセージも、このnoteに書いた内容だったりして、こんなにヲタクのこと見てくれるアイドルっているの!?っていつも感動してた。

福袋の動画、自分あてのメッセージをすでに録画していてくれたのに、年末にライブで会えたからってわざわざ撮り直してくれたことも本当に幸せだったな。今年いちばんうれしかったことのひとつ。動画のなかで、持ち物でのちょっとした共通点を教えてくれたこともすごくうれしかった。今もときどき観ては幸せに浸っています。



「売れる」という「結果」ではなく、あくまでもステージパフォーマンスを高めるという意味で、高みを目指して妥協を許さず努力し続けるストイックさをずっと持ち続けながら、同時に、こんなにもヲタクに寄り添ってくれる、ヲタク想いのアイドル。
最初に書いた、自分は推しの、その人となりが好きなんだって気づかせてくれたのは、間違いなくさちゃんだったよ。


彼女が教えてくれた、「誇り高きアイドル」という曲が、今はとても好きなんだけど、

さちゃんこそ、「誇り高きアイドル」の称号にふさわしい。異論は認めません。


今まで、数えきれないくらいたくさんの幸せを、本当にありがとう。
あなたがアイドルでなくなるのは本当にさみしいけど、アイドルでないあなたも、許されるのならこれからもずっと推させていただきたいです。




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