ぼくらはきっとわかりあえないから

いきなりネガティブな話から始まっちゃうんだけど、話し合えば誰でも必ずわかりあえる、とか言っちゃう系の人間が最高に苦手だ。
まずその人とは絶対にわかりあえないっていう変な自信がものすごくあるんだけど、残念ながらそれはおそらく伝わらなくて、永久に距離をつめてこようとしたりするから始末が悪い。
偏見に満ちた意見かもしれないが、そういう人って、「わかりあおう」って言うくせに、こっちの意見を理解しようなんて気はひとつもなくて、「よく話を聞いてくれればあなたも私の意見を理解して共感するはず」っていうとても迷惑な信念をもって自分の意見をひたすら押し付けてくるだけだったりする。
挙げ句の果てには、自分の意見を理解してくれない人のことを「頭が悪い」とか「だまされてる」とか…
こういう人って、高速道路を逆走してても「今日は逆走車が多いな」って思って、自分が逆走してるなんて思わないんだろうな。
自分もたいがい自信家だけど、「自分はいつも正しい」なんて無意識に思ってるような傲慢な人間じゃなくてホントよかった。

長年つれそった夫婦だろうが、ずっといっしょに暮らしている親子だろうが、相手のことをすべて理解できるなんていうのは幻想だ。
行動パターンはある程度読めるだろうし、考えてることもだいたいは推測できたりするけど、それが本当に合っているかどうかは実際のところわからない。
そして、どんなに気の合う人だって、価値観が完全に一致する人なんて存在するわけがない。一致しているように見えたとしてもどちらかが大なり小なり擦り合わせている。

人間は基本、わかりあえない。
そこからスタートすべきだ、というのが自分の持論だ。
価値観なんて人それぞれ。
「わかりあえるはず」、なんて傲慢な考えは捨てて、もっと謙虚になるべきだ、と思う。

そして、もっと言えば、「わかりあう必要なんかない」。
各自がもっている価値観はその人だけのものだし、価値観によい悪いはないんだから、無理にそれを合わせる必要なんかない。
千差万別の価値観を持つ人々がトラブルなく過ごせるようにするための最低限のルールが「法」である。逆に言えば、法に触れさえしなければ、どんな価値観を持つことも許される。
自分に言わせれば、倫理や道徳、常識などと言われるものだって、個人の価値観にすぎない。日本で常識とされることだって海外では非常識だったりするし、過去には当然であったようなものがものすごい速さで否定されていっているのが現代社会だから、いま「正しい」とされていることだって未来には否定されているかもしれない。TPOで変わるようなものは価値観の相違にすぎない。

前にも書いたことがあるけど、「議論」というものも、たいていの場合死ぬほど苦手だ。
自分にとっては、「議論」とは価値観を押しつけ合う行為だからだ(極論であることは理解している)。
もちろん、自分になかった発想や価値観にふれて、ポジティブな刺激をもらうことだってあるだろうけど、自分の場合だと、それは活字媒体でもらうのがいちばん自分に合っている(自分のペースで消化できるし、自分がよいと思うところだけ吸収できるから)。
そして、自分は、自分の考えを正しいなんて思ったことはないし、それを誰かに押しつけようなんていう気はさらさらない。当然、押しつけられたくもないし、押しつけられて考えを変える気もない。
もちろん、議論が有益だと思ってる人もいるだろうけど、まさにそれこそが価値観の相違なので、その人にとってはそれでいいけど、自分にとっては違う、ただそれだけだ。

で、実はここからが本題なんだけど、現代に必要なやさしさとは、わかりあおうとすることではなくて、わかりあえないことを認めあい、尊重しあうことなんじゃないか、という話。

価値観が違うときに、「わかりあおう」とすることって、どちらかに考えを変えることを強制するわけだから、たいていの場合は平行線に終わってよけいに対立を生むし、もし擦り合わせたとしても、自分の価値観に反する結論になった方はとても窮屈に感じるだろう。
誤解を恐れずに言えば、偏見も価値観のひとつだ。偏見を持つ側が多数派で、それが当たり前の世の中だと、少数派の人は生きづらさを感じることが多くなるだろう。ただ、問題なのは、実は偏見そのものではなく、その偏見を当然のものとして相手に押し付ける行為なのだ。

例えば、「女性はみんな早く結婚して子どもを産むべきだ」という価値観。ひと昔前まではこの価値観は多数派で、それを口に出すひとも少なくなかったわけだけど、今の時代、そんなことを口に出す人はほとんどいない。
もちろん、相手を傷つける可能性がある、このような価値観の押しつけがなくなったことは好ましいことだ、と思う。
ただ、現実問題として、生き方の多様性が尊重されるようになった現代において、どこの国においても急激な少子化が社会問題になっているのも事実だ。
だから、個人の価値観として、「女性は早く結婚して子どもを産むほうが合理的だ」という考えを持っていたとして、それ自体が責められるべきことではない。問題なのは、それを口に出して、その価値観を他人に押し付ける行為なのだ。
自分はもちろん「女性は早く結婚して子どもを産むべき」なんて思ってないけど、ただ、今の時代って、そういう考えを持つこと自体が悪いことだ、という価値観をおしつけられがちな風潮で、それはそれで自由のない、窮屈な世の中だよな、と思ったりしている。
口に出さなければ、どんなこと考えてたっていいんだよ。頭の中まで縛られるって恐ろしい社会じゃない?

…ちょっと脱線してしまった。
「わかりあえない」→「わかりあおう」は、対立や窮屈さしか生まない、ということが言いたかったのです。

それに対して、わかりあえないことがみんなの共通認識になれたなら、わかりあえないことは当然だから、「わかりあおう」ではなく、「ああ、あなたの考えはそうなんですね」というふうに理解する、つまり、価値観の相違を認め合うような世の中になるんじゃないかと。

性指向や性自認の価値観だって、現実にそういう人たちがいるわけだし、他人にその人たちの価値観を否定する意味も権利もないしその人たちが自分の価値観に従って生きたいように生きられる社会が望ましい、それは確実にそうなんだけど、実際のところ、自分は性的マイノリティーではないから、たぶん本当の気持ちは理解できないしきっと価値観も擦り合わせられない。むしろ、「気持ちわかります」とか言うことの方が傲慢だし、薄っぺらい共感ならしない方がよいと思う。
「自分にはわからないけど、あなたの価値観を尊重するよ」が、自分にとっていちばん正直でしっくりくる言葉だ。

前に、そのままのタイトルで書いたエントリーがあるんだけど、まさに、
「わかりあえやしないってことだけをわかりあうのさ」。

「わかりあえない」って、ネガティブなことばじゃないんだよ。
わかりあえないからこそ、価値観の違いを尊重できるし、もっと言えば、基本わかりあえないぼくらが、ほんの一瞬、心が通じ合うような瞬間があったとき、それをとても幸せなことだって感じられるんじゃないか。
わかりあえないからこそ、わかりあえたと感じる奇跡のような瞬間が、この上なく尊いんだ。

神さまじゃない、わかりあえないぼくらは、わかりあえないからこそ、お互いを認めあおうよ。


よろしければ、この話の続きのエントリーもご覧いただけたらうれしいです。


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