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さよなら、音楽祭

コロナに呑まれた、学校生活。5年間を捧げた音楽祭を、高校の2度とも奪われた。


音楽祭への思い

著者は、中高一貫校の高校2年生。音楽が好で、吹奏楽部に入っている。

中学の時からずっと、音楽祭実行委員会(以下「音実」)で活動してきた。弊校の音楽祭は、中学1年生から高校3年生までが一堂に会し、クラスごとに合唱を披露。最後には合唱部、室内楽部、そして私もいる吹奏楽部が「音楽会」と称して演奏する。クラスでも部活でも演奏でき、大好きなホールという場所を1日満喫できる音楽祭が、著者は大好きだ。

昔から6月に行われてきた音楽祭だが、昨年度と今年度のみ諸事情(コロナウイルス以外の理由)により2月になっていた。

弊校は生徒主体で生徒会活動が行われ、その一角に位置づけられる高校音実が音楽祭の企画運営の主体である。中でも委員長団と呼ばれる中枢陣営は高1/2年各6名の計12名からなり、生徒の中では音楽祭のトップである。

前述の通り中学1年生からずっと音実に在籍していた著者は、高校1年生で副委員長、高校2年生で委員長を務めることが通例である。その通例にしたがい、副委員長になるはずだった春である。

コロナ禍の到来

新型コロナウイルスが、世界を変えた。

学校は休校、行事どころか部活も、授業でさえ止められる日々。休校が明けても、行事は次々に中止された。副委員長にはなったものの、「合唱」は感染リスクが高いとされるため、音楽祭も問答無用で中止となった。

夏から始まった先輩たちの準備は、中止の一言で水の泡のごとく消えてしまった。

委員長となった今年度。音楽祭という場で、本当にトップの存在。昨年度の嫌な記憶はあったが、不安を振り払い、実施を信じて春から地道に準備を進めてきた。秋には感染状況も落ち着き、光が見えた、気もした。

でも、現実は無情だった。

新年、感染力の高い変異株のまん延により教育活動にも再び制限がかかった。2月に予定されていた音楽祭は、その影響をもろに食らった。この状況下で、よしんば行事ができるとして、合唱が許可されるわけがない。

今年度も、音楽祭は中止となった。

高校音実として過ごした2年間、一度も本番を迎えることができなかったのだ。

ただ音楽を楽しみたいだけなのに、どうしてこうもやり玉に挙げられなければならないのだろうか。どうして体育の授業でマスクを外すのは良くて、換気十分、少人数でマスクをつけた合唱練習が不可なのか。

音楽は、今も厳しい現実に立たされている。

そして、著者の学年は未だ、高校で音楽祭を経験できていない。

思い出との別れ

来年度は幸い、6月に音楽祭がある。しかし、できる保証などどこにもない。上からの一言でいとも簡単に中止となる。
それに、使用ホールは例年よりも小さい。
吹奏楽部員としては、定期演奏会を行う思い出のホールなのだが、音楽祭はもっと大きな、素晴らしいホールでやっていたはず。

そう、もうあの思い出のホールには行くことができなかったのだ。

最後に行ったのは中2のとき。2度しか使えなかったけれど、その素晴らしい内装、座席、パイプオルガン。今も覚えている。

音実に尽くしてきた5年間は、何だったのだろう。そう思ってしまう。

音楽祭の中止が決まった夜、帰宅してから呆然としていた。翌日には部活後に、同期の中でも信頼する人とご飯を食べに行って、初めて辛さで泣いた。

それからも、1週間程度は何も手につかなかった。2年連続の辛さ、諦めをつけたつもりだったけれど、心には辛さが積み重なっていたのだと思う。コロナに罹るより、もしかしたら辛いことかもしれない。

今は、部活を引退する定期演奏会が無事にできるかに奔走している。心も落ち着いた。

でも、時折音実で作った資料が出てきたりすると、心が少し痛いような、空っぽのような、虚しさに襲われる。

でも、私はもう、あのホールでの音楽祭の思い出に、先輩たちの演奏に憧れたあの気持ちに、別れを告げなければならない。

さよなら、音楽祭。

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