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銀河鉄道に乗れなかったあの頃の方が幸せだったのかもしれない

『銀河鉄道の夜』だけは、ダメなのだ。

これまで400冊以上の本と向き合った。読書家と呼ぶには少ないが、海外文学から歌集まであらゆるジャンルの作品にふれた。表紙を開く前から抵抗を感じることはほとんどない。

だけど、この作品だけはどうも苦手だ。タイトルですら怯んでしまう。さかのぼってみれば、この因縁ははじめて出会った小学生の頃から15年以上続いている。



「たまにはこういう本も読みなさい」

児童書コーナーの絨毯に広げた『ハリー・ポッター』から顔を上げると、父が見慣れぬ本を差し出してきた。これまで何度も図書館に連れてきてもらったが、借りる本に口を挟まれたのははじめてだ。お目当ての本は貸出中。貴重な休みに車を出してもらったのに、何も借りないのも気まずくためらいながら受け取る。


真っ先に浮かんだのは、『ハリー・ポッター』シリーズに出てくるホグワーツ特急だ。ハリーたちを9と3/4番線から魔法の世界に連れていってくれる。あの赤い列車が汽笛を鳴らせば冒険の合図。いじめられっ子は英雄に変わり、勇猛果敢に仲間と悪に立ち向かうのだ。

この物語もまた”列車”が不思議な世界へ導いてくれるのだろうか。満点の星空を縫うように駆けていくのを思い描いて胸がときめく。ラミネートの黄ばんだ本を大事に抱いた。



ジョバンニは内気な少年。授業で先生に当てられても、答えがわかっているのにもじもじしてしまう。恥ずかしくて情けなくてどうしようもないとき、同じように当てられてわからないふりをしてくれるのがカンパネルラだ。

たったひとりの友だちだが、やさしいぶん人気者で、いじめっ子のザネリとも仲良しグループ。銀河のお祭りも一緒に行くとかではしゃいでいる。

祭りだろうとなんだろうと病気の母のために、放課後は印刷所で働き、おつかいにも行かねばならないジョバンニのさびしさたるや。烏瓜の灯籠を流しに川へ向かうザネリたちとすれ違ったあと、丘へ一目散に駆け出していった彼の気持ちは痛いほどわかった。


で、気づいたときには汽車の中にいる。さっき別れたはずのカンパネルラも乗っている。ここからふたりだけの秘密の旅が始まるのだ!

という最高潮で私はつまずいた。

ジョバンニ自身いつ乗ったかわからない設定なのに、「読み飛ばした!」と焦った。ページがひっついていないか一枚ずつ確かめるが、言葉の波に飲み込まれぼーっとしているうちにやっぱり汽車の中にいる。


そこからは知らない宝石や植物の名前のオンパレード。目がチカチカするばかりで、幻想的な銀河の風景はちっとも見えてこない。

それにふたりの会話もなんだかへんてこ。カンパネルラはいきなり「おっかさんは、ぼくをゆるして下さるだろうか」なんて切り出すし、ジョバンニがせっかくとりなしても「誰だって、ほんとうにいいことをしたら、いちばん幸なんだねえ」と噛み合っているのか噛み合っていないのか。


乗車が突然なら降車もいきなりやってくる。ジョバンニが顔を上げるとさっきまで話していたカンパネルラがいない。窓の外には深い闇。


はっと目を覚ますとジョバンニは丘の上に寝転がっていた。どうやらすべて夢だったらしい。帰ろうと立ち上がるが、町が妙にざわついている。どうやらカンパネルラが川に落ちて見つからないというのだ!


電車に乗っていたカンパネルラが突如消えた。つまり何者かによって投げ出された。そのまま川に落水。見つからない。


という迷推理の末、私は慄然とした。興味本位で銀河鉄道なる怪しげな列車に乗ったばかりに、ジョバンニはたったひとりの親友を失ったのだ。


序盤で感情移入していただけに、思いっきり突き飛ばされた気分。それに次は私のところに列車がやってくるかもしれない。読み終わって数日は戦々恐々と窓の外を確かめる夜を過ごした。



読み間違いに気づいたのは大学生の時である。有名な作品はひととおり読んでおこうと久々に手に取ってはっとした。


カンパネルラが川に落ちたのは銀河鉄道に乗る前の話。ジョバンニとすれ違ったあと、烏瓜の灯りを流そうとして溺れたザネリを助けるために川に飛び込んだ。銀河鉄道は生を終えた人たちを天国に導くための片道列車だったのだ。


隣に座ってきた家庭教師の青年も太平洋を航行していた船が沈没。救助に来たボートも一部が故障し全員は乗り切れない。親たちはせめて子どもだけでもと叫んでいる。彼らを押しのけて助かってはたして幸せなのか。覚悟を決めた青年は教え子とともに渦に飲みこまれ、気づいたときには銀河鉄道に乗っていたという。


彼らもカンパネルラもだれかのために自分の命を犠牲にした。そしてジョバンニは赤く燃えるさそり座の逸話を聞く。いたちに追いかけられたさそりは井戸に落ち、死を悟る。これまで小さな虫たちを食べて生きてきた。井戸の底でひとり虚しく死ぬぐらいだったら、自分もいたちに命をくれてやればよかった。来世ではみんなのためにこの体を使いたい。神に祈った瞬間、体がうつくしく燃えて星になったという。ジョバンニは「もうあのさそりのようにほんとうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない」と宣言。物語全体に”自己犠牲”と銀河の風景の美しさが響きあっているのである。


そしてやっぱり私は置き去りにされたような心地になるのだ。ようやく頭で理解できたのに、今度は心が追いつかないんだから。

物語はジョバンニがカンパネルラの事故を知り、家へ向かって走り出すシーンで終わっている。だが、残された者の旅は終わらない。その先にはさびしさが待っている。出口のないさびしさが。

ジョバンニは明日からひとりぼっちの学校生活だ。カンパネルラのお父さんは子どもだけで川に行かせたことを夜な夜な悔やむだろう。ザネリは一生自分を責め続けることになるかもしれない。もし彼がなにも感じずのうのうと生きていくのだとしたら、やさしいカンパネルラばかり悩ませて神様ってあまりに理不尽じゃないか。

私は書かれていないこのさびしさを、なかったことになんかしたくない。それで自己犠牲の精神は美しいなんて説くのは胸が張り裂けそうだ。

文学部で学んだ4年間、賢治の作品だけは一度もレポートで取り上げなかった。



銀河鉄道は三度私の前に現れた。キナリ読書フェスの課題図書として。もう一度この本と向き合うのはどうにも気が重い。いっそこのもやもやを全部吐き出してしまえば、苦手な作品として堂々と心に置いておけるだろうか。


強張りがほぐれるまで、1文目を繰り返しなぞる。だんだん意味がとろけていって先生の声が聞こえるまで待つと、言葉のひとつぶひとつぶを取り込むようにゆっくりと読み進めていく。すると遠くにぼやぼやとひかるものが。じっと見つめているうちに、光の筋は輪郭を帯びてくる。


”わからない”だ。


なぜこれまで見落としていたのか。過去の自分に呆れるくらい、何度も何度も登場する言葉。なにより”自己犠牲”のエピソードには必ずセットで出てくる。


「僕わからない」。カンパネルラは自分のしたことが母にとっても幸せなのか考える。

「なにがしあわせかわならないです」。葛藤の中でボートに乗らない覚悟を決めた家庭教師の青年を燈台守はなぐさめる。

「けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう」。みんなの幸せのためならさそりのように体を燃やしたっていいと宣言したジョバンニすらも立ち止まる。


せっかく授かった命を自らなげうってよかったのか。だれかを傷つけてでも生きればよかったのか。残された人たちは本当に救われるのか。自分が背負うはずだった罪悪感で苦しんでいる人がいるのではないか。そうやって迷いの中で終えていく人生は幸せなのか。


この物語は考える。いつまでたっても〝わからない〟問いを。次の世界へいく人も、残された人も。書かれないさびしさをおりまぜながら。


それはきっと、絶体絶命の局面で選択を迫られた人だけじゃない。私もこの数年で身近な人との別れをいくつも経験した。祖父との最期は1年に一度、ほんの数十分顔を合わせるだけだった。昔から畑仕事ひとすじで、一緒に出かけたこともほとんどなくて。残された時間が短いと察しても、なにを話していいかわからなかった。孫としてそれでよかったのか。思い出してときどき泣きたくなる。

若くして逝ってしまった先輩は、スポーツドリンクのようにビールを飲む人だった。「ちょっとは体のこと考えてくださいよ」って冗談まじりにでも言っていたら、なにか変わっていたのだろうか。


もっとやりたいことがあったのかな。彼らの人生は幸せだったのかな。ああしていれば、こうしていればはとめどなくあふれてくる。


だって彼らを愛していたんだから。


それでも生きていくために、私たちは信じるしかないのだ。空の向こうにどんなくるしみも和らげてくれるもうひとつの世界があることを。愛する人たちがゆくその旅路が、窓をのぞけば水や花がやさしくまたたき、耳をすませば甘く讃美歌がつつむ、幸福なものであることを。これは残された人たちの祈りの物語だったのかもしれない。

ようやくこの小説を掌にすくうことができた。けどそれだけ私が大切な人を見送ってきたということでもある。

だとしたら、銀河鉄道の本当の意味など知らず、愛する人がずっとそばにいてくれると信じて疑わなかったあの頃の方が幸せだったのかな。

ねえ、ほんとうのさいわいって一体何だろう。


●宮沢賢治『銀河鉄道の夜』(角川文庫)



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