怒ることを忘れない、傷ついたことをなかったことにしない
「って、今はこれもセクハラで訴えられちゃうかな、アハハ」
ここ数年、職場でもタクシーでも、やたらとこの言葉に遭遇する。ドン引きの下ネタのあとだったり、「髪切った?」みたいな他愛ない声かけのあとだったり。「ほんの冗談のつもりだからね」「このご時世、こっちも大変だよ」と会話に蓋をして、私から苦笑い以外の選択肢を奪っていく。それまで不快に思っていなくても、その一言に含まれる保身と威圧に触れた瞬間、気力が根こそぎ流れ出していく。
本書『マチズモを削り取れ』(集英社)は、編集者Kさんの「男性中心に回っているのでは?」と感じた出来事をもとに、著者武田砂鉄氏が時に満員電車や寿司屋に乗り込み、時に専門家に意見をぶつけ、日常にこびりついたマチズモ(=男性優位主義)を徹底的にあぶり出す。
一向になくならない痴漢、肩書きに「女性」がつくこと、上がりっぱなしの共用トイレの便座、いつも同じ展開をなぞる食堂の会話……。ページを捲るたびに、新たな課題が持ち上がる。そして、その事例の多くに、私も覚えがある。
電車のボックス席で膝を擦りつけられ、身動きひとつ取れなかった圧倒的恐怖。
昼は「結婚したらどうせ辞めるんだろう」と職場でぼやかれ、夜は「そんなんじゃ結婚できないぞ」と居酒屋で煽られるやるせなさ。
男女共用のトイレしかない職場で、誰かが席を立つたびに流れる若干の気まずさ。
ほんの笑い話が「そういうとこ直した方がいいぞ、俺はこんなにすごいんだぜ」というアドバイスに変わっていたげんなり感。
読むほどに、奥底にしまい込んでいた記憶が鮮明によみがえってくる。ささくれた気持ちをずっと持っているのはしんどい。「気にしないキャラ」でいる方がうまく回るケースも多いから、考えすぎないうちに、意識の彼方へ沈めてしまう。
全ての男性に当てはまるわけでも、全ての女性が不快に感じるわけでもないだろう。ジェンダー以外の問題も絡んでいるかもしれない。だが、「女性の社会進出が進んでいます」と高らかに謳う裏で、女性を受動的な存在として型にはめ込む価値観は、今日もじっと身をひそめ呼吸を続けている。
営業事務に着任した日、私は瑞々しいやる気に満ちていた。「はじめは基本の業務だけで精一杯かもしれないけど、どんどん新しいことに挑戦してほしい」。内示と一緒に託された言葉を信じ、事務作業だけでなく、企画も任せてもらえるかもしれないと期待した。
「営業さんの机、埃が溜まる前に拭いてあげてね」
希望はあっけなく砕け散った。前任の先輩が上司のデスクを順に拭いていく。「私がやりますよ」と買って出るべきだ。頭ではわかっていても、身体が動かない。どれだけ両腕をさすっても、鳥肌はおさまりそうになかった。
代々女性社員が引き継いできたそのポジションは、いわゆる「女子マネ」的役割を担っていたと思う。
お茶出し、会議の弁当の手配、コピー取り、ゴミ出し……。引き継ぎ書には書かれていなかったこれらの業務が、本来の事務仕事を圧迫していた。気力はすり減り、残業がずるずると増えていく。
本書の第8章「甲子園に連れて行って」でも、女子マネージャーという日本独自の存在を取り上げ、過酷な環境が時に彼女たちの安全をも脅かすことに警鐘を鳴らしている。
そのポジションにおさまることを咎めるのではなく、そのポジションが微動だにせず、「女性が身の回りのケアをして当たり前」になっていることに違和感を持ちたい。(p.191)
私もやる気がなかったわけではない。会社を回していく上で重要なものであると理解していたつもりだ。
ただ、2階まで弁当を5往復して運んだり、ファックスが届いたらすぐに宛先の机に配ったり。これらは本当に業務なのか、疑問を持たずにはいられなかった。「身の回りのケア」が仕事の顔をして紛れていやしないか。それも「女性だから」という理由だけで。飲み下せなかったもやもやは、喉の奥でじっくりと凝り固まっていった。
パソコンのキーを打ち込みながら、階下の声が大きくなるのを聞く。他部署との合同会議が終わったらしい。事務所を出て、吹き抜けの踊り場から見下ろすと、十数人が来客の見送りのため、ぞろぞろと会議室を出ていく。全員が立ち去るのを確認し、私も1階へ。水屋の冷蔵庫の上からお盆を引っ張り出し、湯呑みを片そうと会議室の扉を開けた。
愕然とした。思わず落としそうになったお盆をぐっと掴み直し、長机に歩み寄る。椅子という椅子が全て机からはみ出ていた。1脚たりともきちんと収まっていない。なぜそれだけのことに絶望しているのかわからない。だが、目の前のバラバラでガタガタな会議室は、早起きして作ったのに、いざ開けてみるとぐちゃぐちゃになっていたお弁当みたいに悲しいのだ。溢れ出す気持ちを抑え、ひとつずつ湯呑を集める。
「軽く机の下に押し込んでやれば済むじゃないか」頭の中で先輩たちの声が私をいなす。
「じゃあどうして私より何十年も長く生きている人が、たった1脚の椅子の背を軽く押し込んでやることができないの?」
「かわいそうだなって思ってやるしかないよ」
「そうやって憐んだって、結局傷つくのは私じゃないか」
誰かが戻ってくる前に片付けてしまいたいのに、なんとか自分を納得させたいのに、がくがくと震えが突き上げて、涙が滲んだ。整然と円い顔をして見上げてくる湯呑の縁が憎たらしくて、いっそお盆ごと床に叩つけてしまいたい衝動に駆られる。この会議室のように無秩序に、砕け散る陶器の破片。想像して手が震え、咄嗟にトイレへ逃げ込んだ。喉の奥で固まったもやもやは、嗚咽となって爆発した。
私はあの頃、降りかかるマチズモのひとつひとつに敏感に傷ついていた。持てるエネルギーの限りに、怒っていた。それがいつの間に、会話の主導権を握られても愛想笑いでごまかして、脱力しているだけになったんだろう。
変わらないな、という憤りを保たなければ、マジで変わらない。マチズモを削り取るための有効な方法はないし、すぐに改善はできないけれど、このまま続けていくしかない。体系的にではなく、ひとつひとつ、目の前のことに突っ込んでいくしかない。(p.302-303)
ページを手繰りながら、すっかり疲弊してしまった自分に気付く。男性にだってつらいことはある。男/女という区別自体に苦しんでいる人もいる。みんな我慢しているのだからと、言い聞かせてきた。でも、だからこそ、どんな立場の人も気持ちよく生きられる社会を目指して、団結できるはずじゃないのか。
『マチズモを削り取れ』と、本書は一貫して呼びかける。Kさんは変わらない現状に呆れながらも、檄文を送り続ける。著者は埋もれた事例も取りこぼさず、優位を保持したい人たちの思惑を突きとめる。痛みと向き合い、粘り強く怒っている。
私もまずは、芽生えた怒りを大切にしよう。たとえ何十億分の一の話だとしても、私はたしかに傷ついたのだと認めること。なかったことにせず、問題として提起することから、始まるのではないだろうか。
あの日、戸棚にしまい込んだ湯呑をひとつひとつ手に取るように、最後に過去を振り返り、本を閉じる。パリンと何かが遠くで砕ける音がした。
◉武田砂鉄『マチズモを削り取れ』(集英社)