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私の『ハリー・ポッター』が1巻と2巻だけ中古の理由

小説の最新刊が発売を迎えただけでニュースになった時代がある。『ハリー・ポッター』(J.K.ローリング/静山社)が店頭に並ぶ日、レジには朝から行列ができ、コスプレしたファンが歓喜と祝福の声を上げた。私もそのひとりである。十数年前、関西の田舎でありったけのお小遣いを握りしめ、小躍りしながら本屋を目指した。

作中に登場する『クィディッチ今昔』(静山社ペガサス文庫)や『幻の動物とその生息地』(静山社ペガサス文庫)、『吟遊詩人ビードルの物語』(静山社ペガサス文庫)にシリーズ完結後の世界を描いた舞台の脚本『ハリー・ポッターと呪いの子』(静山社)など関連書籍やグッズはできる限り集め、USJのアトラクションに乗るためにジェットコースター恐怖症も克服した。筋金入りのポッタリアンだ。

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だが、我が家の原作小説を裏向けると、1巻と2巻にだけBOOK OFFの値札シールが貼ってある。

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保存用にもう1冊買う人もいる中、他人のおさがりで満足している私は愛と熱に欠けているようでちょっと後ろめたい。新品を買い直そうとしたこともあったが、金銭的な余裕を見いだせないまま時は流れ、今や書店には見慣れぬ表紙の新装版なるものが並んでいる。探せばあの重厚感たっぷりの濃紺と臙脂の装丁も手に入るのだろうけど、体面以外に不便はないのでそのままにしている。


小学校からの帰り道はいつも、じゃんけんに負けた人が次の電柱までみんなのランドセルを運ぶゲームをしていた。飽きたらだれが一番長く石ころをけり続けられるか競争した。友達がいないわけではないけれど、私はいつも”2軍”にいるような気がしていた。「勉強も運動も中途半端で存在感の薄い人」、「いても構わないけど絶対誘いたいわけではない人」、「2人組をつくるときにあぶれたら声を掛ける保険の人」。そこから少しでも昇格したくて、一緒にいて楽しい人になりたくて、わざと変な方向に石をけって派手に溝に落としたりした。

他愛ないゲームはある日唐突に終わりを告げた。「うぃんがーでぃあむれでぃおぅさー」「るーもす」「えくすぺりあーむず」……。代わりに友人たちは呪文のような不可解な音の連なりを口ずさんで、「おお!」「それいいよな」と意思疎通している。聞くと本当に魔法の言葉らしい。下校中の遊びは『ハリー・ポッター』に出てくる呪文を順番に上げていって思いつかなくなったら脱落、最後まで残っていた人が勝ちというゲームに取って代わられた。あるときは登場人物の名前に、あるときは食べ物の名前に、お題を変えて続いていく。ひとりだけ別の国にぽおんと飛ばされたみたいだった。一語も理解できない。人名か呪文かすらわからない。もはやなすすべなし。「あれ、めっちゃドキドキした」「絶対おいしいよな」とまるで実際に体験したように語る同級生たちを黙って見ていた。そのときのときめいた表情よ。こうして手を振って別れた後、彼らは私の知らない世界でひそかに邂逅しているのだ。羨ましくてたまらなかった。


「あんたほんまにこんな分厚い本読めるんか」

はじめて文化的なものをせがまれた両親は喜んで本屋に連れていってくれた。が、その金庫扉ほどもあろう分厚さに目をひん剥いた。『かいけつゾロリ』(原ゆたか/ポプラ社)すらまともに読み切れない娘である。どうせ読まれなくなる本などただの紙束に同じ。1円でも節約したいと古本屋へ。それでも映画化直後のブーム真っ只中、定価1900円+税のところ1巻1500円、2巻は950円。新刊とさほど変わらない。両親から何度も意思確認されたが、「読む」の一点張りで突き通した。

で、10ページでつまづいた。どうしたって”マクゴナガル先生”が”マクドナルド先生”にしか見えないのだ。赤いアフロヘアの陽気なピエロがハンバーガー片手に脳内を駆け回る。テンパっていたら他の登場人物が覚えられずにページを行きつ戻りつ。その上「口調」とか「ポンド」とか知らない単語を辞書で調べて一向に進まない。次第に離れていく私にこりゃいかんと思ったのか父は映画『ハリー・ポッターと賢者の石』のビデオを借りてきた。吹替ではなく字幕。あらわれては消える文字を必死で追った。おおまかなあらすじをつかむだけで精いっぱい。きちんと理解できなかったのがもどかしくて、もう一度原作に手を伸ばした。

映画が想像力を補ってくれたのか、驚くほど鮮やかに遠く離れたイギリスや現実にはありえない魔法界の風景を思い浮かべることができた。駅のホームの柱へひとおもいに突っ込み、9と3/4線からホグワーツ特急に揺られる。初めて見る魔法使いにお城のような学校を案内され、星がきらめく食堂で帽子と対話し、絵画としゃべって、箒で空を飛んだ。ひとたび本を開けば私は殺人鬼の魔の手から逃れた英雄で、1年生にしてスポーツチームの大エース。ともに立ち向かってくれる仲間がいて、厳しくも優しい愛で満たしてくれる先生がいる。

日本の学校に春休みがあるように、主人公ハリーも1巻ごとに1年成長し、魔法学校の寮から人間界の意地悪なおじさんの家に帰る。2巻まで一気に読み切った私は最新刊が発売されるまで、ハリーと一緒に魔法界での夢のような生活を心待ちにする。おかげで読み終わっても気分は物語の中。下校中のゲームにも参加できるようになったけれど、以前のように無理して好かれようと思わなくなった。あと少し我慢すれば本の中で心許せる友と会えるのだから。私は読書の楽しさと同時に、ここから逃げ込むもうひとつの世界を手にしたのだ。

新品なら「ふくろう通信」という特典チラシがついてくるというのを知って、シリーズ3作目『ハリー・ポッターとアズカバンの囚人』は本屋で買った。はじめて自分のお小遣いで手に入れた小説。かたい表紙をめくるとき、大人びたときめきに少しくらくらした。


それから中学、高校と美術部で熱を上げたが、いざ将来を具体的に考えると美大に通うお金も能力もなかった。空白の進路希望調査票を前に途方に暮れいき当たったもののひとつが『ハリー・ポッター』だ。舞台はイギリス、なら英文学科だなと軽い気持ちで受験した。その他の本は年に1冊読むくらい、別段英語が得意なわけでもないけれど、現実を生きる支えになってくれた物語の力をもっと知ってみたいと思った。奥深き文学の世界に魅了され大人になった今は収入のほとんどを本につぎ込み、何か読んでいなければ息もできないというとうてい引き返せないところまで来ている。

『ハリー・ポッター』との出会いが私を作ってくれたといえば聞こえはいいが、人間関係の問題が解決されるわけでも、就職に役立つわけでもないのにお金も時間も注ぎ込み、あげく自分も文章で表現してみたくなり、5年続けてきた仕事を投げ捨ててしまった。むしろ人生を狂わせた作品である。3巻を本屋で買ったあの日、私はアズカバンよりずっと甘美で頑丈な物語の牢獄に収監されてしまったのだ。値札シールがなくなる2巻と3巻の境目は泥沼にひきずりこまれた瞬間の生々しい跡だと思えば、このままとっておくのも悪くないかな。


都村つむぐの読書遍歴リスト

◉J.K.ローリング『ハリー・ポッターと賢者の石』『ハリー・ポッターと秘密の部屋』『ハリー・ポッターとアズカバンの囚人』『ハリー・ポッターと炎のゴブレット 上・下』『ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団 上・下』『ハリー・ポッターと謎のプリンス 上・下』『ハリー・ポッターと死の秘宝 上・下』(静山社)

◉J.K.ローリング『ハリー・ポッターと呪いの子』(静山社)

◉J.K.ローリング『クィディッチ今昔』『幻の動物とその生息地』『吟遊詩人ビードルの物語』(静山社ペガサス文庫)


私の読書遍歴ならぬ読書偏愛歴をエッセイで振り返っていきます。不定期ですので、更新情報はnoteかTwitterをフォローしてお待ちいただけるとさいわいです。

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