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Rainbow⑬

恵み⑥

 平日の夕方、琴美は学校近くにある海が眺望できるカフェで、千夏との会う約束を取り付けた。もうマサキ先輩はいない今、真里だけが頼りだ。しかし、真里は何度LINEしても返信がなく、直接会って話そうとしても「今は無理!」の一点張りだった。そこで琴美が選んだのは、真里の母親である千夏だった。
 琴美が店に入ると、千夏は既に飲み物を注文し、海側のガラス窓近くの席で本を読んでいた。琴美は千夏を見つけ、近づいて声をかけた。
「おばさん」
「あ、琴美ちゃん、久しぶり!ここ、座って」千夏は、琴美が席に着くのを待って、「何飲む?」と尋ねた。
「アイスキャラメルコーヒー」琴美がメニューを指して言うと、千夏は「私もさっき同じのを頼んだわ」と笑顔を向けた。
 「あの、メールでも伝えたんですけど、私もう限界感じてて、真里なしではもう無理で」
「ええ、琴美ちゃんの気持ちは分かるわ。でも、ごめんなさいね。実は私も同じように何度も練習に行くよう言ってるの。でも、全然聞き入れてくれないの。真里は、一度決めたら曲げないタイプだから、いつもこう!」千夏は両手を顔の両側に出して、前に伸ばした。琴美は、以前真里が千夏の後先考えずに突進する性格を同じように表現していたのを思い出し笑った。
「え?琴美ちゃん、どうしたの?」
「いえ、親子ってやっぱり似るんですね。前にも真里が同じことをしていたので、つい」
琴美の笑い声に引かれて千夏も笑った。ちょうどその時、二人のアイスキャラメルコーヒーがテーブルに置かれた。二人は、ストローでコーヒーを啜り、一息ついた。千夏が窓の外を見た。それに引かれて、琴美も外を見た。
 雲一つない青空が窓いっぱいに広がっていた。椰子の葉がわずかに揺れており、外には微風が吹いていた。しばらく沈黙が二人の間に訪れた。先に口を開いたのは琴美だった。
 「もうすぐ台風が来るって今朝のニュースで言ってましたね。私、台風が来ると気圧の変化で鼓膜がツーンってなって嫌なんです。おばさんはどうですか?」琴美は意図もなく尋ねたが、千夏は笑って答えた。
「ううん、私は耳がツーンとはしないかな。でも、台風が来ると胸がドキドキするの。ワクワクするのよ。白保海岸が見える家の窓から台風を眺めるのが好き。変でしょ?」
「はい!とても変だと思います。でも、素敵だと思います!」琴美は笑ってストローを口にした。
「前にね、島のおじいさんから『台風は海からの恵み』って言われたことがあるの」
「え?それってどういう意味ですか?」琴美は千夏を見た。千夏はメニューを手に取り、「デザートでもどう?」と提案して笑顔を向けた。
 二人のデザートがテーブルに置かれた時、店員が突然、「母娘ですか?」と尋ねた。
「そう見えます? 娘が一人増えたみたいね」千夏は笑い、琴美を見た。
「こちらは私の友達のお母さんなんです」と琴美は丁寧に店員に答えた。店員は、「そうなんですか?仲の良い母娘だと思って……予想外でびっくりしました。友達のお母さんとお食事って素敵ですね。どうぞ、ゆっくりしてください」と言った。
 千夏は、琴美と店員が話している姿を見ながら、真里のことを思った。真里と最後に外で食べたのはいつだったろう。店を開いてから、家族で外食はしていない。小学二年生の真里は、外食に行くとオムライスを頼んでいた。三年生の時はハンバーグが好きだった。――高校三年生の今、何を好むのだろう。千夏は、自分が知らない真里がいることをこの時に理解した。来年の四月には、石垣島を離れて専門学校や大学に進学するかもしれない。真里は今年「十八歳の島立ち」を迎えている。千夏は、忙しさにかまけて真里を「もうすぐ大人」と決めつけていたが、それは千夏の都合であって真里の意思ではない。
 そんなことを考えていると、琴美の声が急に千夏の鼓膜を叩いた。
「おばさん!聞いてました?」
「あ、ごめんなさい。聞いてなかったわ。もう一度言ってちょうだい」
「大丈夫ですか?疲れてるんじゃないですか?」
「ううん、大丈夫。ちょっと考え事してただけ。琴美ちゃん、ごめんね」
「『台風は海からの恵み』って話、すごく興味があるんですけど、教えてください」
「そうだったわ、その話はまだ途中だった」
 千夏は、テーブルの上のかき氷ぜんざいをスプーンで掬いながら話を続けた。

 台風は、海面温度の高い場所で発生し、足の遅い台風ほど、勢力が強く被害も大きい。八重山諸島を含む沖縄全域は毎年台風による被害がある。作物や家屋の破損、時には自動車がひっくり返ることも。しかし、台風は数多くの恩恵をもたらしている。珊瑚の白化現象が深刻な問題となっており、その原因は赤土流出や海水温の上昇だが、台風の風が海を掻き混ぜることで、珊瑚の生育に適した温度が生まれる。豊かな珊瑚礁は多種多様な魚や微細な生物を引き寄せ、海を再生する。さらに、雨水を含んだ雲が森に大量の雨を降らせ、森は地中に雨水を溜め込み、濾過された綺麗な水が川やダムに流れ人々の生活を支える。だから、私たちは台風によって生かされているのだ。

 千夏は話を終えると、椅子の背もたれに上半身を預けてふうと息を吐いた。琴美は千夏を見つめていた。テーブルの上のバニラアイスが溶けてほぼ液体になっていた。
「あら、琴美ちゃん食べてなかったの? アイスが溶けちゃってるわ」
「あ、本当だ!おばさんの話が凄すぎて、つい」
「私というより。島のおじいの受け売りだけどね」千夏はそう言い、青く広がる窓の外を眺めながらぽつりと溜息交じりに言った。「再生、……かぁ」
 その一言に、千夏の真里への思いが込められているように琴美は感じた。「再生」――正気を取り戻したり、以前よりもより良く生まれ変わること。琴美は劇団のことを思った。もし再生できるとしたら、団員一人ひとりが活気に満ち溢れ、絶えず成長を望み、切磋琢磨する集団になってほしい。私と真里は、今年で劇団の卒業が決まっている。何とか、真里も劇団も再生させる方法はないだろうか? 溶けゆくバニラアイスを琴美は見つめた。すると、千夏が琴美のバニラアイスの方へ手を伸ばした。
「ねえ、このバニラアイスを少しもらってもいい?」
「あ、はい。どうぞ」琴美は、千夏の方へ皿を動かした。
「ありがとう!ちょうど味を変えたかったの。ぜんざいとバニラアイス、相性がいいのよ。こうやって、ぜんざいとバニラアイスを混ぜると新しいスイーツに生まれ変わるの。どう、一口食べてみる?」千夏は、先ほどの溜息など無かったかのように明るくキラキラした表情で琴美に聞いた。真里がサバサバした性格なのは、母親似なのだと、琴美は独り合点した。
「食べてみていいですか?」琴美は嬉しかった。約二十くらい歳は離れているけれど、こうやってスイーツをシェアする友達が増えたからだ。真里とは校庭のベンチでたまにお弁当を食べるだけ。いつか真里と千夏と三人で、スイーツを食べる日が来るといいな。琴美は、バニラアイスとぜんざいの混ざり合った即席スイーツを一口食べた。
「んん、美味しい!」
 沖縄ぜんざいは、金時豆を黒糖でじっくり煮込んで甘さ控えめに作られている。だから、バニラアイスの甘さが黒糖の苦味と混ざり合って程よい味になっている。舌鼓する味わいに、琴美の頬はとろけそうだった。千夏も一口食べると、琴美のように舌鼓を打った。二人で即席スイーツを堪能していると、不意に琴美が声を上げた。
「あ!そうだ、これですよ、これ!『再生』できるかもしれない」
「どうしたの、琴美ちゃん?」
「おばさん、ドラァグクイーンのお友達がいるんですよね? 前に真里から聞いたことがあって」
「ええ、いるわ。今は主に、ドラァグクイーンの育成に力を入れているみたい。たまに舞台に立つって言ってたわ」
「その方を石垣島に呼べませんか? 台風になってもらいましょうよ!」
「グルグルと掻き混ぜてもらうの?」
「いいえ、めちゃくちゃにしてもらうんです!」
「でも、それじゃ劇団が混乱しちゃうわよ……」千夏は琴美の真っ直ぐな目を見て、すべてを理解した。
「『再生』ではなく、『新生』させるのね。立て直しよりも、一から新しく作り変える。――でも、それは簡単なことじゃないわよ」
「分かってます。でも、そうしないと真里も、劇団も生まれ変われないと思うんです。おばさん、手伝ってもらえますか?」
琴美の覚悟を目の前に、千夏は苦悶した。千夏は知っている。いつだって、生まれ変わるにはその代償を払わなければならないことを。
 千夏は琴美の顔をじっと見て、その覚悟を見定めた。一度始まったら、もう後戻りはできない。たとえそれが失敗に終わったとしても……
「いつでも、どんな時でも、どこにいても、助けに行くよ。君がそう望むなら」
 千夏の心に、不意に朋樹の声が聞こえた。彼が琴美を支えてくれるなら、できるかもしれない。そんな思いが脳裡をよぎったが、千夏はそれをすぐに払った。今の彼ならきっとこう言うだろう。
「救われたいなら、覚悟を決めなさい!」
 それは、「人に頼ろうとしてはいけない。そうすれば、いつまでも人のせいにしてばかりの人生になる」ということだろう。

 千夏は、三年前に楠田朋樹と再会した。実に約二十年ぶりの再会だった。
 再会した彼は、世界を股にかけるドラァグクイーンになっていた。その名もエリーシャ。「悪魔な天使」という異名を持つ彼の決め台詞が、「救われたいなら、覚悟を決めなさい!」だった。
 千夏は、琴美の覚悟を見定めるよりも、まず自分自身がその覚悟を決めなければならなかったことに気づかされた。千夏は琴美を真っ直ぐに見つめ、言った。
「いいわ、やりましょう」千夏と琴美は、テーブルを挟んで手を握り合った。琴美が千夏に礼を言うと、千夏は鞄から携帯を取り出し連絡先を検索し始めた。
 わざわざ時間を割いて来てもらったのだから、次の用事でもあるのだろうと琴美は思った。その労力に感謝を込めて「ありがとうございます」と琴美は礼を伝えた。
「ううん、私の方こそありがとう……あ、見つかったわ」千夏は、携帯を片耳に当て琴美の方を見た。
「きっと今、アメリカは朝の六時ぐらいよね?」
「え、おばさん、まさか今電話してるの? ドラァグクイーンに! まだ具体的な計画もないのに?」琴美は呆気に取られた。やはり真里の言った通り、「思い立ったが吉日」をそのまま行う人なのだ。琴美は真里の苦悩を、今身にしみて分かった気がした。
「あ、出た……もしもし、私。ちょっと頼みたいことがあるんだけど。……ええ、覚悟はできてるわ。うん、わかった。よろしくね」そう言うと、千夏は通話を切った。
「え、今ので伝わったの?台風みたいに掻き混ぜてほしいとか『新生』させたいとか……」
「そうね。彼、物分かりがいいから。荷造りして、来週の頭ぐらいには石垣島に着くそうよ。それと、一か月後に石垣島でドラァグクイーンショーをするらしい。その準備を私も手伝うことになったわ」千夏はさも当然のような顔をしている。琴美は唖然とした。千夏以上に「思い立ったが吉日」――いや、その最上級の表現が見つからないが、おそらく思考回路が常人とは比較にならないのだろう。千夏の友達は。……琴美は、少し不安になった。
「大丈夫だろうか、……私」

 窓の外の青空はどこまでも澄みきっており、海との境界線が分からないほどだった。嵐の前の静けさとはよく言ったもので、台風襲来前の天気はいつも静かに、そして晴れやかだった。

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